ところに再縁して、ここを安住の地と定め、姑からは娘のように可愛がられ、夫の気にも入り、一粒種の君子を恵まれて安心しているやさき、父の不慮の死に会ったのだと言う。
母の話をするとき、祖母の目に涙の光っていることが少くなかった。そんなに気にいった嫁であったのに祖母は母の素姓を少しも知らなかったらしい。どういう事情で父のところに縁づいてきたのか、それさえ君子は聞いたことがなかった。
祖母の話によると、君子の生まれるまでの母は精神《こころ》というものを前《さき》の世に忘れてきた人のように、従順ではあったが、阿呆《あほう》のようにも見えたそうな。しかし、それでありながら洞穴のような空虚な身内のどこかに、青白い蛍火のような光が感じられ、気味のわるいところもあったという。不思議なことには、手紙のきたことは一度もないのに母は毎月欠かさず手紙を書き、二里もある町の郵便箱まで自ら入れに行ったそうな。祖母は嫁の素姓が気がかりでもあり、手紙になにが書いてあるのか、ながい間気をつけていたが、内容を知る機会は容易にこなかった。ただ一度、ほんの十行足らずの書きつぶしを発見したことがあったそうで、そこには気味のわるい呪いのことばが書き連らねてあったという。その文言がどんなものであったか、君子は祖母から聞いたようには思うが、今ではなにも思い出すことができない。
こうした変質の人らしかった母が、君子を産んでからまるで人が変わったように円満で温和な人になった。それは今まで乗り移っていた、得体の知れないけだものがぬけ去って本来の人に復《かえ》ったようで、それからの母は手紙なぞ一本も書かなかったそうである。
夢のきれさしのように君子の記憶にのこっている祖母の話のきれぎれは、今では君子の想像のままに素姓の秘密を限りなく掘り広げている。
父の変死の後に、すっかり熱の下がった母は前夜泊まった二人の遍路の話を聞き、お高祖頭巾をかぶったその一人がとても母によく似ていたという話を聞くと、非常に驚き、そのまま再び床についてしまったということである。
父の死後、そんなに裕福でもなかった家は急角度で没落の淵に急いだものらしく、耕す田地もなくなったので作男に暇を出し、広い家の中には祖母と母と、君子の三人だけがさびしくとり残された。そしてついに米塩の資を得るために母は日夜|機《はた》を織らねばならなかった。暮しは日一日と苦しくなり、このままでは三人が餓え死ぬよりほかなくなったので、母は一度国に帰ってくると、祖母一人を家に残して発足したという。
父の変死から家の没落、母が国へと言って発足するまでの話は、これも長い間にきれぎれに、あとさきの順序もなく聞いた話で、今では断片的にしか君子の記憶によみがえってこないのである。母の発足当時の祖母の話を思いだすと、なぜか妙に君子には抱茗荷《だきみょうが》の紋と、椿《つばき》の花が思い出される。これは決して祖母の話の再生ではなく、その話から連想される、君子自身が直接目に見た記憶に違いないのである。母の発足からなぜ抱茗荷と椿の花が思い出されるのであろうか。
君子の家の定紋がなんであったか、君子の物心のつくころには、すでに家の没落した後で、定紋のついているものなぞ、家のうちには見出せなかったが、祖母が手廻りの品を入れるために持っていたただ一つの提灯箱《ちょうちんばこ》についていた紋所は、丸のなかに四角なものが四つあったように思うから、これは丸に四つ目の紋に違いない。だから君子の記憶に抱茗荷があろうはずはないのである。椿の花にしても、君子が祖母と一緒に住んでいた山端の掘っ立て小屋の付近に椿はなかったように思うし、たとえ山のなかや、他家の庭先なぞで見たことがあるにしても、それが、母の帰国に関係があるとは思われない。君子にはもっと、特殊な記憶にしっかりと焼けつくような大きな事件のあった時と所で見たに違いないと思われるのである。
君子が母に連れられて発足してから、再び祖母のところに帰ってくるまでの話も、祖母から幾度となく聞かされたが、これは祖母自身が見ていた話ではないから、その大部分は片言まじりの君子の話か、祖母が想像して創《つく》りあげたものに違いないと君子は思っている。
朝早く、まだ明けきらぬうちに母に連れられて家を出た君子は、汽車に乗ったり、乗り替えたり、船に乗ったりしたが、居眠っていたこともあれば、よく寝ているところを揺り起こされたり途中は夢うつつで、まるきり記憶になく、最後に乗合馬車を降りてからの道がとても遠い道であったことをぼんやりと覚えている。川もあった。小さな峠も越した。どこまでつづくかと思われるほど長い田圃道《たんぼみち》もあった。垣根に山茶花《さざんか》や菊などの咲いている静かな村もいくつか通った。そうした道を君子は母の背に負われたり、また手を曳《ひ》かれて歩いたりした。そして途中でたしか泊まったはずであったが、それが一度であったか二度であったか思い出せない。ただ暗くなった田舎道を歩いたときの心細さや、低い家並の暗い田舎町にぽつんと四角なガス灯をつけたはたごやなぞのあったことを覚えている。そしてまた明くる日も同じような道がつづいた。そのとき母はたしかにお高祖頭巾をかぶっていた。
この道中の記憶は、まるで夢のようで一つも連絡がなく、思い出す道中の景色であったのか、また、旅をするようになってから見た景色であったのか、一向にはっきりけじめがつかぬのであるが、母が黒|縮緬《ちりめん》頭巾をかぶっていたことだけは間違いないと思っている。
松の木のまばらな、だらだらと長い坂を登りきると急に目の前がひらけて、遠く地平線にまでつづくひろびろとした平野があった。人家なぞも一軒も見当たらず、はるかな右手に大きな、とても大きな池があって、その池のむこうには小さな森と、それを囲む白い塀が見えた。陽はよほど西に傾いて、このひろびろとした池の水は冷たそうな光を放っていた。
母は、この小さな森を指差して君子になにか言ったが、そのとき母がなにを言ったのか、君子にはどうしても思い出せない。今になって考えてみると、これは非常に大事なことで、そのときの一言さえ思い出せたら、夢のような一切がはっきりするに違いないと君子は残念に思うのであるが、それがどうしても思い出せない。山を下って森に着いてみると、それはずいぶん広い森で、長い田圃の突き当たりに大きい、大名のお城にあるような門が立っていた。門の前に立った君子の母は、しばらく躊躇《ためら》っていたが、君子に、お前はしばらくここに待っているのだよ、お母さんはすぐに出てくるから、と言っていやがる君子をそこに待たせて、お高祖頭巾をかぶったまま門のなかにはいって行った。そして、そのままである。母はついに再びこの門から出てこなかったのである。
それから、すでに十年の月日がたっている。その時の淋《さび》しい自分の小さな姿を君子は今でもはっきりと胸に描くことができる。およそ一時間も待ったであろうか、あたりに家はなし、もちろん人通りなぞあろうはずがなく、子供心にもじっとしていることができなくなり、そっと門のなかまではいってみたが、建物なぞどこにあるのか、大きな木が何本もあって、門の外までつづいている道と同じような道が森の奥の方に消えている。君子はなんだか気味が悪くなって、再び門の外までひき返し、ベソをかきながら塀《へい》に沿うて屋敷の周囲を廻ってみたが、周囲の小門はかたく閉されてあったし、右に廻っても左に廻っても塀のつきるところは池になっていた。陽はだんだん西に傾く。風は冷たいし、君子はついに泣きながら再び門をはいって行った。
ところどころに石の灯籠《とうろう》があったり、池につづいているような小川に石の橋がかかっていたり、構えのなかはまるでお宮さんのようであった。長い塀がつづいて、納屋《なや》のような建物の天井に龍吐水《りゅうどすい》の箱や火事場用の手桶なぞがつってあった。お宮さんの社務所のような大きな玄関、その横の天井には、芝居の殿様が乗ってくるような駕籠《かご》がつってあった。君子は勝手口らしい入口の大きな戸を泣きながら身体で開けた。家のなかは人がいるのかいないのか、シンと静まり返ってしわぶきの音一つしない静かさだった。君子はなおもすすりあげながら、そこに立っていたが、誰も出てくる様子がないので、そっと中をのぞいて見た。そこには人の影はなく、ぴかぴかと黒光りのする板敷に藺《い》で作ったスリッパのような上|草履《ぞうり》が行儀よく並べてあった。君子は、お母ちゃんお母ちゃんと二声、三声呼んでみたが、誰も答えるものはなかった。君子は途方にくれて薄暗い庭に立っていた。
しばらくすると奥の方から、静かな足音とともに、顔の平たい老人が出て来た。老人は君子がそこに立っているのを見ても一向に驚いた様子がなく、すぐ庭に下り、こちらにおいで、といってそのまま出口の方に出て行った。君子はこの老人に従うよりほかに、仕方がなかった。
老人はだまって塀に沿うて歩いた。君子はこの伯父《おじ》さんについて行けば母のいるところへ行けるものと思い、ややともすると遅れがちになる足を、ときどきチョコチョコ走りに運びながら老人のあとに従った。塀をはずれて大きな木の間をぬけ、小川に沿うてしばらく行くと、木の間から黄昏《たそがれ》ににぶく光る池の水が見えた。池のそばに立った老人は、君子のくるのを待って、それ、お前のお母さんだよ、といって池の水を指差した。そこに木の枝が水の上にかぶさって、一層うす暗くなっていたが梢《こずえ》をとおす陽の光がかすかに射していた。その水のなかに母の死骸《しがい》は浮いていたのである。
君子は、この老人の顔を、しっかり記憶していたつもりだった。それはこの老人の死骸を見せてくれただけでなく、君子を祖母のところにまで送りとどけてくれたのであるから。だがよく覚えていたつもりの老人の顔も、年を経《へ》るにしたがって曖昧《あいまい》になり、その後に知った木賃宿《きちんやど》の主人《あるじ》や、泊まり合わして心安くなった旅芸人の老人なぞの顔とごっちゃになり、まったく記憶の外に逃げ去って、今では思い出すことさえできなくなっている。あるいはよく覚えていたと思うことさえたのみにならぬことであったかもしれない。もちろんこの地方の豪家らしい家のことなぞ、夢のようにしか記憶に残っていない。
祖母の語ったところによると、君子と母が発足してから六日目の夜、君子は一人で大きな人形を抱いて掘っ立て小屋に帰ってきたということである。お母さんはどうしたか。と尋ねても、ただ大きなご門のなかにはいったまま出てこなかったということ、お母さんは死んでお池のなかに浮いていた、というだけで、なにを尋ねても要領を得ず、誰と一緒に帰ってきたのかと聞くと、よその伯父さん、と答えるだけで、どうして母が死んだのか、誰が送ってきたのか皆目《かいもく》見当がつかなかったそうである。祖母は君子が抱いて帰った人形になにか手がかりはないかと捜してみた。人形は菊菱の紋を散らした緋縮緬の長襦袢をつけ、紫紺に野菊を染め出した縮緬の衣裳を着ていた。帯はなんという織物か祖母には判断がつかなかったが時代を経た錦であることは間違いはなく、人形はどこ出来であるか分からなかったが、相当に年代を経たものらしく、また着ている衣裳なぞも、とても今出来の品ではなかった。そのように古色を帯びたものではあったが、よはど大切に扱われていたものとみえ、髪の毛一筋抜けてはおらず、すこし赤茶気た顔はかえって美しさを増していた。いずれにしてもむずがる子供をあやすために持たせたにしては高価で貴重にすぎる品には違いなかった。しかし、この人形からは不思議な君子の母の死を知る手掛りはなに一つ見出せなかったということである。
それからの祖母は、君子の母が死んだものとは、どうしても思えぬと言いつづけたが、すでに年をとって身体も自由でなく、気も心も萎《な》えきった祖母は、しまいには諦《あきら》めたらしく、家の暮しがあまりに苦しいので
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