しましたが、二人が区別のつかぬほどよく似ているということが恐ろしい因縁で、男は妹の手にまた姉の手にというように、この醜い争いは繰り返されました。男が死んで互いに争う目標がなくなった後も、敵どうしの因縁をもって生まれた二人は莫大な財産を中心に争いをつづけましたが、今はもう争う必要がなくなりました。つまり、この人形が不要になったのです。母を失った代わりにこの人形だけでも与えておきましょう。

 日付もなければ署名もない。しかし人形の胸に描かれた梅の模様は、このかきつけを読んでいるうちに君子に分かってきた。それは君子の記憶の底に沈んでいた母の乳の上にもあった痣を思い出すことができたからである。しかし、この手紙のようなかきつけはさらに大きな疑問を君子に与えた。君子は手紙を手にしたまま深い考えに沈んだ。
 よほど夜がふけたらしく、あたりは死んだように静かである。ふと気がつくと、廊下に静かな、忍んでくるような足音がする。君子は急いでランプを吹き消した。あたりはうるしのように真っ暗な闇である。部屋ですみにうずくまり息をころしていると、できるだけ静かに忍びやかに歩いているらしい足音は、君子の部屋の前でとまったまま動かなくなった。やがて、幽霊が入ってくるときは、こうもあろうかと思われるほど静かに障子の開く音がした。君子は瞳を凝《こ》らし梟《ふくろう》のように目を見張ったが、それはほんとうの幽霊ででもあるのか、ただ闇のなかにぼんやりとおぼろな影が見えるだけで、それが何者であるのかすこしも分からなかった。忍んできたものは静かに君子の部屋に入った様子であったが、そのまままた動かなくなった。じりじりと後にさがった君子は蝙蝠《こうもり》のように壁に身をつけた。じっと見つめていると真っ暗な闇のなかにしゃぼん玉のような五色の泡がいくつもぷかりぷかりと湧きあがってくるように思った。君子は急いで瞬《またた》きをした。そのときである。なにに驚いたのか、忍びこんでいたものは急いで、しかし静かに障子を閉め、来たときとは反対の廊下に去って行った。そのとき君子は遠くの廊下に、やはり忍んで歩いているらしい別の足音を聞いた。
 こんなことはその夜が初めてではなかった。すでにこれで三度目である。そして不思議なことには三度とも遠い廊下に聞える別な足音で君子は救われた。君子が母の自殺に疑いを持ち、夢のような記憶をたどって母の死因をたしかめようと志してから、妙に自分の身近に監視の目が光っているように思われるし、自分の命が危険にさらされているような不安さえ感じられる。今夜のようなことが三度もあるのはきっと自分の命を狙っているに違いない。人形の腹から出て来た手紙には、今は、もはや争う必要がなくなりました、この人形は不要になったのです、とある。母を殺したから、もはや争う必要がなく、人形が不要になったというのに違いない。だから君子が母の死因を探すことがきっと恐ろしいのだ。それで禍《わざわい》の根を断つために自分を殺そうとしているのだ。母を殺したものが父を殺したのだ。自分が殺されてなるものか、きっと復讐をしてやる――と、君子は雄々しくも決心したのであった。
 それからの君子は毎夜、用意を整えて待ちうけた。はたして四度目に黒い影の現われたのは十日ばかりの後であった。先のときと同じように長い間障子の外に立っていた黒い影は、暗い君子の部屋のなかに一歩踏み入れて、じっとそこに立ったまま室内をうかがっている様子だった。君子は闇のなかに瞳を凝らした。すると、いつもそうであるようにどこかの廊下から人の歩く足音が聞えてきた。黒い影は口のうちでなにか一言つぶやいたようであったが、そのままもとのとおり障子を閉めて去ろうとした。君子は素早くその後を追った。黒い影は長い廊下をまっすぐに突き当たり、雨戸を開ければ、立木をとおして池の見える縁廊下を静かに歩いて行く。君子は身を隠すところもない長い縁廊下を蜘蛛《くも》のように部屋の障子に沿うて後を尾《つ》けた、今にも先に行く黒い影が引き返し、襲いかかりはしないかと不安と恐れにはずむ息を押えて。黒い影は廊下を曲り小さな橋を渡って離れに消えた。それは未亡人の部屋だった。
 やっぱり、考えたとおりだと君子は思った。しかし未亡人なら母の姉か妹か知らないけれども伯母《おば》さんに違いはない。たとえそれが伯母であろうと父を奪い、母を殺し、自分の命までも狙う鬼にも等しい伯母なら復讐するのは当然ではないか。ひき返した君子が自分の部屋にはいろうとしたとき、廊下の闇から忍ぶような声がした。松江《まつえ》さん。君子はぎょっとして、そこに立ちすくんでしまった。あんたの身体はきっと僕が守ります。それは下男の芳夫《よしお》の声だった。
 少し風が出たのであろう。ふた子池の葦《よし》の鳴る音がかすかに聞
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