こに立つと、まだ寝ついていなかったとみえ、ふとんの上に起き直ったおくさんは、瞬間己の目を疑うように君子の様子を見つめたが、次の瞬間には、あっと低い叫びをあげて立ち上がり、泳ぐような手つきで君子に近づいてきた。が、そこになにを見たのか彫り物のように立ちすくんでしまった。
 君子にも気がつかなかったが、君子の後ろには芳夫が立っていたのである。
 翌日おくさんは終日床を離れなかった。君子は素知らぬ顔でご用をつとめた。用事のために君子がおくさんのお部屋に入って行くと、いつも芳夫が窓の下に立っていた。
 それから、また数日の後だった。君子はおくさんの留守の間に人形を床の間に飾った。これで最後のためしをするつもりだった。用便から部屋に帰ってきたおくさんは、しばらくはそれに気のつかぬ様子であったが、ふと床の間の人形に目がつくとあわてて抱きあげそっと部屋を見廻して、まるで怖いものを手にしたようにそっと畳の上に置いた。そして――やっぱり……知っているのか――と、つぶやくように言った。
 次の間からうかがっていた君子と芳夫は、ひそかに顔を見合わせた。
 君子は金の札を浅い茶碗の水に浮かべて中風のため口も身体もきかなくなって一室に寝たままの白髪の老女にすすめた。老女は中風やみ特有な表情でしばらくは茶碗のなかを見ていたが、やがてゆるしを乞うようにぼろぼろと涙を落としながら幾度もあたまを下げた。傍らに坐って不思議そうに見ていた芳夫に、君子は父の最期を物語って聞かせた。
 芳夫は言った。松江さん、あなたは女の身です、決して短気なことをなさらぬように、私はあんたのためなら水火も辞しません。それに父の犯した罪を償うのはあんたに対する義務です。あんたのお父さんやお母さんの敵《かたき》をとる義務は私にあります。
 その日のふた子池は風もないのに波立って、いまにも降るかと思われる黒い雲におおわれていた。はたして午後から吹きだした風は夕方から雨をよんで、夜になって暴風雨となり、ふけるにしたがってますますはげしく、この邸を包む大きな森の木という木はものすごい嵐のなかにものの化《け》のように無気味な踊りをつづけた。磨《と》ぎすました斧を右手にさげた芳夫が暗い廊下に立っていた。さすがに丈夫な建物も嵐の吹きつける度毎に不気味に鳴り、横なぐりの雨は雨戸にすごい音をたてた。芳夫は静かに障子を開いた。未亡人は連日の疲労
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