れたり、また手を曳《ひ》かれて歩いたりした。そして途中でたしか泊まったはずであったが、それが一度であったか二度であったか思い出せない。ただ暗くなった田舎道を歩いたときの心細さや、低い家並の暗い田舎町にぽつんと四角なガス灯をつけたはたごやなぞのあったことを覚えている。そしてまた明くる日も同じような道がつづいた。そのとき母はたしかにお高祖頭巾をかぶっていた。
 この道中の記憶は、まるで夢のようで一つも連絡がなく、思い出す道中の景色であったのか、また、旅をするようになってから見た景色であったのか、一向にはっきりけじめがつかぬのであるが、母が黒|縮緬《ちりめん》頭巾をかぶっていたことだけは間違いないと思っている。
 松の木のまばらな、だらだらと長い坂を登りきると急に目の前がひらけて、遠く地平線にまでつづくひろびろとした平野があった。人家なぞも一軒も見当たらず、はるかな右手に大きな、とても大きな池があって、その池のむこうには小さな森と、それを囲む白い塀が見えた。陽はよほど西に傾いて、このひろびろとした池の水は冷たそうな光を放っていた。
 母は、この小さな森を指差して君子になにか言ったが、そのとき母がなにを言ったのか、君子にはどうしても思い出せない。今になって考えてみると、これは非常に大事なことで、そのときの一言さえ思い出せたら、夢のような一切がはっきりするに違いないと君子は残念に思うのであるが、それがどうしても思い出せない。山を下って森に着いてみると、それはずいぶん広い森で、長い田圃の突き当たりに大きい、大名のお城にあるような門が立っていた。門の前に立った君子の母は、しばらく躊躇《ためら》っていたが、君子に、お前はしばらくここに待っているのだよ、お母さんはすぐに出てくるから、と言っていやがる君子をそこに待たせて、お高祖頭巾をかぶったまま門のなかにはいって行った。そして、そのままである。母はついに再びこの門から出てこなかったのである。
 それから、すでに十年の月日がたっている。その時の淋《さび》しい自分の小さな姿を君子は今でもはっきりと胸に描くことができる。およそ一時間も待ったであろうか、あたりに家はなし、もちろん人通りなぞあろうはずがなく、子供心にもじっとしていることができなくなり、そっと門のなかまではいってみたが、建物なぞどこにあるのか、大きな木が何本もあって、門の外までつ
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