仙人掌の花
山本禾太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)閑枝《しずえ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)急|潭《たん》
[#]:入力者注 主に外字の注記や傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
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(一)
閑枝《しずえ》は、この小さな北国の温泉町へ来てからは、夕方に湖水のほとりを歩くことが一番好きであった。
丘一つ距てた日本海に陽が落ちると、見る見るうちに湖面は黒くなって、対岸の灯が光を増すのであった。
陽が、とっぷりと暮れる。芦の葉ずれ、にぶい櫓声《ろごえ》、柔かな砂土を踏むフェルト草履の感じ、それらのすべては、病を養う閑枝にとっては一殊淋しいものではあったが、また自分の心にピッタリと似合った好もしい淋しさでもあった。
そっと人にも隠れるようにして二階へ登った閑枝は、机の前に座ってホッと軽い溜息をつくと、ガラス窓からその窓一ぱいに黒く垂れ下った柳の葉に見入った。机の上に届いたばかりの二通の手紙にはちょいと視線を落したばかりで、それを手にとるでもなく、いま薬の包紙を開いたままコップに盛られた水をジッと瞶《みつ》めた。ガラスを透してながめる美しい水、それが閑枝の心にヒンヤリと刃物に似た冷たさを思わせるのであった。
自殺! と云うことが、フト閑枝の心に浮んだ。この薬が毒薬だったら……、こう思うと、血を吐いて苦しんでいる自分の姿が幻覚となって自分の目に見えるのであった。
閑枝はフト立上った。それは閑枝の心に、黒い湖水が一ぱいに拡がり、芦の葉ずれの音や、ニブい櫓声が聞えてきたからである。自殺、自殺、と、閑枝は唄うように呟いた。机の前に座り直すと、ペンを執った。遺書を書くためである。
書いて了《しま》って、それを封筒に納めると、なにか大きな仕事を、なし終ったときのような疲労を感じた。
それから二通の手紙を手に執って見た。
その一通は継母《はは》からのものであったが、他の一通は真白な横封筒で、差出人の名は書いてなく、その筆跡にも見覚えはなかった。
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私は、あなたに手紙を差上げることを、どれほど躊躇したか知れませぬ。手紙を差上げると云うことは、私と云うものを、あなたの目の前に現わすことに等しいことですから………しかし私にはこの心のよろこびを、ただ一人でジッと抱いて居ることが出来なくなりました。この湖畔の小さな温泉町に、あなたの姿を見ることができたと云う喜びを………。
これから私は、あなたに手紙を差上げることを日課とするかもしれません。それは私のこの心の喜びが、あなたを不快にしないだろうと信ずるからです。お互に病を養うものに取っては、慰めが一番大切だと思いますから………。
[#ここで字下げ終わり]
この手紙は今、自殺を思った閑枝の心に、大きなすき間をつくってしまった。も一度繰り返して読んでみよう、と思っているところへ、姉が上って来た。
「いつの間に、帰って来たの、あまり長く潟のそばに居ては、よくないと思って心配していたの」
姉は、窓のガラス障子を細目に開けて、押入れから、夜具を出しながら、
「明日、伊切の浜へ行かない、義兄さんもお休みだから、なかなかいいとこよ」
閑枝は、手紙をそっと机の下に押込みながら、
「ええ、行ってもいいわ、だけれどもまた此前見たいじゃ………」
「なにね、もう大丈夫よ、病気だってよほどよくなっているんだし、それにあすこには自動車があるしするから………」
「義兄さん、今晩はかえらない」
姉は、部屋の片隅にふとんを敷いて了《しま》うと、火鉢のそばに座りながら一寸そこの置時計を眺めて、
「今朝金沢へ行ったので八時頃には帰るって………、もう帰ってくる時分よ」
停車場には、今電車が着いたらしく、四五人の、人の足音が入りみだれて、家の前を通ったが、すぐにまた、もとの静かさにかえった。兄が今の電車で帰ったらしく、くせのある静かな咳払いが聞えたと思うと、二階へ上って来た。
「おかえり」
「おかえりなさいまし」
兄の着替えを手伝ながら姉は、
「明日、閑さんと私を、伊切の浜へ連れて行って下さいね」
「それもいいな、しかしもう日中は少し暑くはないかな……。それは、そうと閑枝、お前弥生軒で写真を写したそうだね」
「ええ、一寸今日、あの前を通ると写して見たくなって……」
「今日電車の中で、弥生軒のおやじに会ったら、『お嬢さんを撮らして貰いました』と云って喜んでいたよ、しかし此辺の写真屋は、とても下手だからなア」
食事のために、兄夫婦が下へ下りてゆくと、閑枝は、机の下から手紙を出して見た。
なんでもない手紙だが、閑枝の自殺の機会を奪ってしまった。読みかえして見ると、その手紙からは、病苦になやむものの、淋しさは感ぜられるが、どこかにまた、生のよろこびを歌っているようにも思われた。しかしそれよりも、此手紙の主《ぬし》が何人《なにびと》であろうか、と、云う好奇心が第一に起るのであった。
(二)
其あくる日は、兄夫婦と共に、伊切の浜へ行って見た、京都と云う海のない都会に育って、海と云えば大阪の築港より知らぬ閑枝に取っては、日本海に向って立った感じは、あまりに雄大すぎた。初夏の光が海一ぱいに拡って、遠い海のはては、次第に灰色にかすんでいる、そのかすんだ灰色のなかから、黒い大きな波が魔物のように押し寄せて、怒りそのもののように岸をかんでいる。
閑枝の心は、またしても淋しさに捉えられた。
帰りは自動車に乗った。
陽にかがやいた磯。白く光る波頭。暗く灰色にかすんだ海の涯が、いつまでも閑枝の心にのこっていた、机の抽出《ひきだし》には、遺書と、未知の人から来た手紙とが、何時までも這入っていた。
「あんなことを云っても、ほんの一ときの気まぐれから、いたずら半分の手紙だろう」
斯《こ》う思い捨てても、時折はその手紙を出して眺めることもあった。別に大きな期待をかけている様でもなかったが、それでも現在の閑枝に取ってただ一つの刺戟である手紙の主がこのまま、消えてしまうことは淋しいことには、違いなかった。
しかし、それから四五日の後、閑枝は机の上に、再び差出人の署名のない、白い角封筒を見出した。
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私は、あなたへの手紙を、毎日書いています。それが現在の私の仕事の総てです。世に容れられない身体を持った私は、何度自殺と云うことを考えたでしょう。だが死ぬ勇気さえもなく私は惰性のような命をもって、この温泉場に逃れてきました。京都から来るときには沢山の本を持って来ましたが、まだその三分の一も読んでは居りません。読めば読むだけ、苦痛を増すばかりで、少しも慰めとはなりません。此土地も次第に都会の人が入り込んで来ます。私は幾度湖水の畔に立って死を考えたことでしょう。でも私は生きていたればこそ、あなたと云う方を見出すことができたのです。私は生きていたことの幸福をしみじみと感じます。貴女の御病気が一日も早く御全快になるよう祈りながら、その日が貴女をこの町から失うときであるかと思うと、淋しくなります。しかし私は、そのときがきても決して悔まないでしょう。それは私の心から、あなたの姿は永遠に消えないからです。
[#ここで字下げ終わり]
いのちをかける何物をも持たぬ閑枝にとっては、この主の知れない手紙は、大きな心の刺戟であった。
原稿用紙へ、ペンで小さく書てある字を、瞶めていると、その一線一画にさえ、どうやらなつかしさを覚えてくるのであった。閑枝は何とはなしに、その手紙を、鼻にあてて見た、そこにはほのかな、紙とインクの香があった。また封筒を手に取って見た。落付いた行書で、閑枝の名前が、やや大きく書かれてあった。見も知らぬ人の手によって、書かれた自分の名前、それが何か、宿命とか、因縁とか、云うような決定的なもの[#「もの」に傍点]が、この見も知らぬ手紙の主との間に、結ばれているのではあるまいか、と云うような、魅力を持った不安が感ぜられるのであった。左の肩に、正しく貼られた切手には、ハッキリとした「山代《やましろ》局」の消印があった。
(三)
そのあくる日、閑枝は、一人で山中へ行って見た。黒谷橋から断魚渓に沿うて、蟋蟀《こおろぎ》橋へ上った。岩を咬む急|潭《たん》が、ところどころでは、淵となって静かな渦を巻いていた。そこには背の黒い小さな川魚が、静かに遊んでいた。岩の上に佇んでじっと覗きこんでいると、またしても閑枝の心に死と云うことが考えられる。が、その死と云うひろがりの、空虚ななかに、未知の手紙の男の姿がはっきりと、幻覚となって現れるのであった。
帰りの電車では、山代線で、動橋《いぶりばし》行きを待合す間に、閑枝は山代の町を歩いて見た。駅の前通りを、ほんの二丁程も歩くと、そこの右側に「山代郵便局」があった。無名の手紙は、いつもこの局の消印で来る。片山津《かたやまづ》に郵便局があるのに、何故ここまで投函にくるのであろうか、そんな軽い疑念に、たださえ遅い足のはこびが、一層緩くなったとき、「山代郵便局」と白ペンキで書き込んだ、ドアが内側から、ギーと低い音を立てて、静かに開いた、そして其石段の上に、一人の若い男が現れた、閑枝は、何故とはなしに、ハッと思った、そして幾分狼狽した心で、歩を移した。
そのあくる日の夕方、閑枝がいつもの通り湖畔の散歩から帰って見ると白い角封筒が机の上に置かれてあった。
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私の第一信を、あなたは、どう云う気持ちでお読み下さったでしょうか……、それは、あなたにお尋ねするまでもなく、私によく判っています。
あなたは、私の暗夜を歩むに似た生涯に、一つの燈《ともしび》となって下さいました。長いこと暗の夜に、とじこめられていたものが、急に光りを認めたときの喜こびが私にあの第一信を書かせました。私の心に点じられた火は、次第にあかるくなってゆきました。私は世をうらみ、身をなげく絶望から、蘇って生の喜びを感じさえしました、しかし、それは愚かな私のはかない喜びに過ぎなかったのです。あなた、と云う光りが、次第に強くなればなるだけ、私の苦悩を増す結果を愚な私はあまりの嬉しさに忘れていました。
あけても、暮れても、あなたへの手紙を、私の日記に書き入れることを、仕事にしていた私は、それが次第に耐えられぬ苦痛となって来ました。それは到底、あなたの前に、私と云うものを現すことが、出来ないからです。この頃では、あなたの姿を見なかった方が、幸福であったようにさえ思われます。
私は今一枚の画を書いています。その画が出来上りましたら、あなたのお目にかけてそれを最後に、あなたへの手紙を再び書くまいと決心しています。
[#ここで字下げ終わり]
この手紙を読んだ閑枝は、深い淋しさを感じた。それは愛とか恋とか云うものとは別な、なんとも訳のわからぬ淋しさであった。何時の間にか閑枝の心に描かれた未知の手紙の男は、次第にその形をはっきりと現わして、閑枝の心に深く刻みつけられているのであった。
日が暮れていた。閑枝はまたしても窓越しに柳の葉の暗い茂みを瞶めていた。
(四)
閑枝の京へ帰る日が次第に近くなってきた。それは病気も多少は快くなっているし、こう云う淋しいところに、いつまでも一人で置くことは、却て本人の気を憂鬱にすると云う、兄の注意もあったからである。
京都へ帰ることになっても、閑枝は別に嬉しいとは思わず、またこの土地に大して執着も持って居なかったが、ただ無名の手紙の主が、何人であるかと云うことだけは、知りたいと思った。
だが、元より兄や姉に聞くことも、はばかられ、また聞いて見たところで、京阪地方の人達が入込む、温泉の旅館町では、判りそうにも思われなかった。
明日は、二番で立つと云う前の日、午後の三時頃であったが、一個の小包と、手紙が同時に着いた。
その小包を開いて見ると、細い額椽《がくぶち》に嵌《い》れた、八号ばかりの油
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