※」は「さかなへん+「凌」のにすいを除く部分」、518−4]鯉《せんざんこう》、西大陸の食蟻獣《ありくい》、濠州のミルメコビウス(食蟻袋獣)、アフリカの地豚《アルド・ワルク》と等しく、長き舌に粘液あり、常に朽木の小孔に舌をさし込めば、白蟻輩大いに怒りてこれを螫《さ》さんと集まるところを引き上げ食い尽す。日本の蟻吸のことはよく研究せぬゆえ知らぬが、学者の説に、欧州に夏渡り来る蟻吸と日本へ夏渡るものとは別種と認むるほどの差違なしとのことなれば、多分同一種で少々毛色くらい異《かわ》るならん。さて欧州のものは、一夏に十|乃至《ないし》二十二卵を生む。日本のものも必ず少なくとも十や十五は生むならん。保護さえ行き届かば、たちまち毎夏群至して繁殖し、白蟻を全滅はせずとも従来ごとくあまりの大害を仕出さぬよう、その兇勢を抑制するの功はありなん。しかるに何の考えもなく神林を切り尽し、または移殖私占させおわりたるゆえ、この国ばかりに日が照らぬと憤りて去りて他邦へ行き、和歌山辺へ来たらず。ために白蟻大いに繁昌し、ついに紀三井寺から和歌山城の天主閣まで食い込み、役人らなすところを知らず天手古舞《てんてこまい》を演じ、硫黄で燻べんとか、テレビン油を撒かんとか、愚案の競争の末、ついにこのたび徳川侯へ払い下げとなったが、死骸を貰うた同前で行く先も知れておる。
 むかし守屋大連《もりやのおおむらじ》は神道を頑守して仏教を亡ぼさんとし、自戮せられて啄木鳥《てらつつき》となり、天王寺の伽藍を啄《つつ》き散らせしというが、和歌山県当局は何の私怨もなきに、熊楠が合祀に反対するを悪《にく》み、十八昼夜も入監せしめたから、天、白蟻を下し、諸処を食い散らされたものと見える。ただ惜しむべきは、和歌山城近くに松生院《しょうしょういん》とて建築が国宝になっておる木造の寺がある。この寺古え讃岐にありしとき、その戸を担架として佐藤継信負傷のままこの寺にかつぎ込みしという。これも早晩城から白蟻が入り来たり、食い崩さるることならん。蟻吸のことは学者たちの研究を要す。今は和歌山辺に見えず、田辺近傍へは少々渡るなり。合祀が民利に大害あること、かくのごとし。
 第七に、神社合祀は史蹟と古伝を滅却す。史蹟保存が本邦に必要なるは、史蹟天然物保存会の主唱するところなれば、予の細説を要せず。ただし、かの会よりいまだ十分に神社合祀に反対の意見を公けにされざるは大遺憾なり。よって少しく管見を述べんに、久米〔邦‖武〕博士の『南北朝史』に見えたるごとく、南北朝分立以前、本邦の土地は多くは寺社の領分たり。したがって、著名の豪族みな寺社領より起これり。近江の佐々木社より佐々木氏、下野の宇都宮の社司より宇都宮氏、香椎・宇佐の両社領より大友氏勃興せるがごとし。しかるに、今むやみに合祀を励行し、その跡を大急ぎに滅尽し、古蹟、古文書、什宝、ややもすれば精査を経ずに散佚亡失するようでは、わが邦が古いというばかりで古い証拠なくなるなり。現に和歌山県の県誌編纂主裁内村義城氏は新聞紙で公言すらく、今までのような合祀の遣り方では、到底確実なる郷土誌の編纂は望むべからざるなり、と。すでに日高郡には大塔宮が熊野落ちのおり経過したまえる御遺蹟多かりしも、審査せぬうちに合祀のために絶滅せるもの多しという。有田郡なども南朝の皇孫が久しく拠りたまえる所々を合祀のために分からぬことと成り果たしたり。
 また一汎人は史蹟と言えば、えらい人や大合戦や歌や詩で名高き場所のみ保存すべきよう考うるがごときも、実は然らず。近世欧米で民俗学《フォルクスクンテ》大いに起こり、政府も箇人も熱心にこれに従事し、英国では昨年の政事始めに、斯学の大家ゴム氏に特に授爵されたり。例せば一箇人に伝記あると均しく、一国に史籍あり。さて一箇人の幼少の事歴、自分や他人の記憶や控帳に存せざることも、幼少の時用いし玩具や貰った贈り物や育った家の構造や参詣せし寺社や祭典を見れば、多少自分幼少の事歴を明らめ得るごとく、地方ごとに史籍に載らざる固有の風俗、俚謡、児戯、笑譚、祭儀、伝説等あり。これを精査するに道をもってすれば、記録のみで知り得ざる一国民、一地方民の有史書前の履歴が分明するなり。わが国の『六国史』は帝家の旧記にして、華胄《かちゅう》の旧記、諸記録は主としてその家々のことに係る。広く一国民の生い立ちを明らめんには、必ず民俗学の講究を要す。
 紀州日高郡|産湯《うぶゆ》浦という大字の八幡宮に産湯の井あり。土伝《いいつたえ》に、応神帝降誕のみぎり、この井水を沸《わ》かして洗浴し参らせたりという。その時用いたる火を後世まで伝えて消さず。村中近年までこの火を分かち、式事に用いたり。これは『日本紀』と参照して、かの天皇の御史跡たるを知るのみならず、古えわが邦に特に火を重んずる風ありしを知るに足れり。実に有記録前の歴史を視るに大要あり。しかるに例の一村一社制でこの社を潰さんとせしより、村の小学校長津村孫三郎と檀那寺の和尚浮津真海と、こは国体を害する大事とて大いに怒り、百七、八十人徒党して郡役所に嗷訴し、巨魁八人収監せらるること数月なりしが、無罪放免でその社は合祀を免れたり。その隣村に衣奈《えな》八幡あり。応神帝の胞衣《えな》を埋めたる跡と言い伝え、なかなかの大社にて直立の石段百二段、近村の寺塔よりはるかに高し。社のある山の径三町ばかり全山樹をもって蔽われ、まことに神威灼然たりしに、例の基本財産作るとて大部分の冬青《もちのき》林を伐り尽させ、神池にその木を浸して鳥黐《とりもち》を作らしむ。基本金はどうか知らず、神威すなわち無形の基本財産が損ぜられたることおびただし。これらも研究の仕様によりては、皇家に上古|胞衣《えな》をいかに処理せられしかが分かる材料ともなるべきなり。その辺に三尾川《みおかわ》という所は、旧家十三、四家あり、毎家自家の祖神社あり、いずれも数百年の大樟樹数本をもって社を囲めり。祖先崇拝の古風の残れるなり。しかるに、かかる社十三、四を一所に合集せしめ、その基本財産を作れとて件の老樟をことごとく伐らしむ。さて再びその十数社をことごとく他の大字へ合併せしめたり。
 和歌山市近き岩橋村に、古来大名が高価の釜壺を埋めたりと唄う童謡あり。熊楠ロンドンにありし日、これを考えてかの村に必ず上古の遺物を埋めあるならんと思い、これを徳川頼倫侯に話せしことあり。侯、熊楠の言によりしか否かは知らず、数年前このことを大学連に話し、大野雲外氏趣き掘りしに、貴重の上古遺品おびただしく発見せり、と雑誌で見たり。英国のリッブル河辺の民、昔より一の丘上に登り一の谷を見れば英国無双の宝物を得べしという古伝あり。啌《うそ》と思い気に掛くる人なかりしに、七十二年前、果たしてそこよりアルフレッド大王時代およびその少しのちの古銀貨計七千枚、外に宝物無数掘り出せり。紀州西牟婁郡滝尻王子社は、清和帝熊野詣りの御旧蹟にて、奥州の秀衡建立の七堂伽藍あり。金をもって装飾せしが天正兵火に亡失さる。某の木の某の方角に黄金を埋めたりという歌を伝う。数年前その所を考え出し、夜中大なる金塊を掘り得て逐電せる者ありという。
 かかる有実の伝説は、神社およびその近地にもっとも多し。素人には知れぬながら、およそ深き土中より炭一片を得るが考古学上非常の大獲物であるなり。その他にも比類のこと多し。しかるに何の心得なき姦民やエセ神職の私利のため神林は伐られ、社地は勝手に掘られ、古塚は発掘され、取る物さえ取れば跡は全く壊《やぶ》りおわるより、国宝ともなるべく、学者の研究を要する古物珍品不断失われ、たまたまその道の人の手に入るも出所が知れぬゆえ、学術上の研究にさしたる功なきこと多し。合祀のためかかる嘆かわしきこと多く行なわるるは、前日増田于信氏が史蹟保存会で演《の》べたりと承る。大和には武内宿禰の墓を畑とし、大阪府には敏達帝の行宮趾を潰せり、と聞く。かかる名蹟を畑として米の四、五俵得たりとて何の穫利ぞ。木戸銭取って見世物にしても、そんな口銭《こうせん》は上がるなり。また備前国|邑久《おく》郡朝日村の飯盛《いいもり》神社は、旧藩主の崇敬厚かりし大なる塚を祭る。中央に頭分《かしらぶん》を埋め、周囲に子分《こぶん》の尸《しかばね》を埋めたる跡あり。俗に平経盛の塚という。経盛の塚のみならば、この人敦盛という美少年の父たりしというばかりで、わが国に何の殊勲ありしとも聞かざれば、潰すもあるいは恕すべし。しかるにこの辺に神軍《かみいくさ》の伝説のこり、また石鏃《いしのやのね》など出る。墓の構造、埋め方からして経盛時代の物にあらず。故に上古の墳墓制、史書に載らざる時代の制を考えうるに、はなはだ有効の材料なり。これも合祀のため荒寥し、早晩畑となりおわるならん。
 古い古いと自国を自慢するが常なる日本人ほど旧物を破壊する民なしとは、建国わずか百三十余年の米国人の口よりすら毎々嗤笑の態度をもって言わるるを聞くなり。されば誰の物と分からずとも、古えの制度風俗を察すべき物は、みな保存しさえすれば、即急に分からずとも、追い追いいろいろの新発見も出るなり。和歌山市の岡の宮という社は、元禄ごろまでは九頭《くず》大明神と仏説に九頭の竜王を祭れるごとき名にて誰も気に留めざりしに、その社の隅にありし黒煤《くろすす》けたる箱の書付から気がつき、この地は『続日本紀』に見えたる通り、聖武天皇が紀伊国岡の宮に駐《とど》まりたまいしという御旧蹟なるを見出だせしゆえ、今の名に改めたるなり。昨年一月拝承するに、皇族二千余|方《かた》の内ただ四百九十方のみ御墓の所在知れある由。神社はもっとも皇族に関係深ければ一切保存して徐々に詮議すべきに、無茶苦茶に乱滅しおわるは、あたかも皇族華冑の遺跡が分からぬうちに乱滅するは結句厄介払いというように相聞こえ、まことに恐懼憤慨の至りなり。合祀が、史蹟を乱すと、風俗制度の古えを察するに大害あること、かくのごとし。
 第八、合祀は天然風景と天然記念物を亡滅す。このことまた史蹟天然物保存会の首唱するところなれば、小生の蛇足を俟《ま》たず。しかし、かの会より神社合祀に関して公けに反対説の出でしを聞かぬが遺憾なれば、少々言わんに、西牟婁郡|大内川《おおうちがわ》の神社ことごとく日置川《ひきかわ》という大河の向いの大字へ合わされ、少々水が出れば参詣途絶す。その民、神を拝むこと成らぬよりヤケになり、天理教に化する者多く、大字内の神林をことごとく伐らんと願い出でたり。すでに神社なければ神林存するも何かせんとの意中もっともなところもあるなり。かかる例また少なからず、大いに風景を損ずることなり。定家卿なりしか俊成卿なりしか忘れたり、和歌はわが国の曼陀羅《まんだら》なりと言いしとか。小生思うに、わが国特有の天然風景はわが国の曼陀羅ならん。前にもいえるごとく、至道は言語筆舌の必ず説き勧め喩《さと》し解せしめ得べきにあらず。その人善心なくんば、いかに多く物事を知り理窟を明らめたりとて何の益あらん。されば上智の人は特別として、凡人には、景色でも眺めて彼処《かしこ》が気に入れり、此処《ここ》が面白いという処より案じ入りて、人に言い得ず、みずからも解し果たさざるあいだに、何となく至道をぼんやりと感じ得(真如)、しばらくなりとも半日一日なりとも邪念を払い得、すでに善を思わず、いずくんぞ悪を思わんやの域にあらしめんこと、学校教育などの及ぶべからざる大教育ならん。かかる境涯に毎々到り得なば、その人三十一字を綴り得ずとも、その趣きは歌人なり。日夜悪念去らず、妄執に繋縛《けいばく》さるる者の企て及ぶべからざる、いわゆる不言《いわず》して名教中の楽土に安心し得る者なり。無用のことのようで、風景ほど実に人世に有用なるものは少なしと知るべし。ただし、小生はかかることを思う存分書き表わし得ず、その辺は察せられんことを望む。
 またわが国の神林には、その地固有の天然林を千年数百年来残存せるもの多し。これに加うるに、その地に珍しき諸植物は毎度毎度神に献ずるとて植え加えられたれば、珍草木を存すること多く、偉大の老
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