行幸御幸の時、奉幣祈願されし分社あり。いずれも史蹟として重要なる上、いわゆる熊野式の建築古儀を存し、学術上の参考物たり。しかるにその多くは合祀で失われおわる。一、二を挙げんに、出立《でたち》王子は定家卿の『後鳥羽院熊野御幸記』にも見るごとく、この上皇関東討滅を熊野に親しく祈らんため、御譲位後二十四年一回ずつ参詣あり、毎度この社辺に宿したまい(御所谷《ごしょたに》と申す)、みずから塩垢離取らせて御祈りありしその神社を見る影もなく滅却し、その跡地は悪童の放尿場となり、また小ぎたなき湯巻《ゆまき》、襁褓《むつき》などを乾すこと絶えず。それより遠からず西の王子と言うは、脇屋義助が四国で義兵を挙げんと打ち立ちし所なり。この社も件の出立王子と今一大字の稲荷社と共に、劣等の八坂神社に合祀して三社の頭字《かしらじ》を集めて八立稲《やたていね》神社と称せしめたるも、西の王子の氏子承知せず、他大字と絶交し一同社費を納めず、監獄へ入れると脅すも、入れるなら本望なり、大字民七十余戸ことごとく入獄されよと答え、祭日には多年恩を蒙りし神社を潰すような神職は畜生にも劣れりとて、坊主を招致し経を読ませ祭典を済ます。神
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