まその僕の手とともに握って戴き取った。田舎育ちの者かかる美女に手を握られた嬉しさ心魂に徹し、屋敷へ帰っても片時も忘れず。女郎と違い小金で芸子を受け出し得ず、人の花と詠《なが》めさせんよりはと無分別を起し、曾根崎の途中でその女を一刀に斬り殺し麦飯屋の簀《す》の子《こ》下に隠れたが、翌夕腹へって這い出で食を乞う所を召し捕られた(『伝奇作書』初篇上)。行き合いバッタリ、何処《どこ》の誰とも知らぬ者が笄を拾いくれた嬉しさに手を握ったのを、心あっての事と己惚《うぬぼ》れて大事を仕出かしたは、馬鹿気の骨頂たるようだが、妻妾が貴相ありと聞いて謀反したり、鼠が恩を報いるの、鼠を供養すれば大黒様が礼を授くるのと信ずるのも皆同様の己惚れで、力を以て取るべからざる物を取ろうとする愚かな事じゃ。
 大黒天の事は石橋臥波君の『宝船と七福神』てふ小冊に詳述されたから、今なるべく鼠に関する事どもとかの小冊に見えぬ事どもを述べよう。皆人の知るごとくこの神が始めて著われたのは、唐の義浄法師の『南海寄帰内法伝』に由る。義浄は今(大正十三年)より千二百五十三年前、咸享二年三十七歳でインドに往き在留二十五年で帰った時、奉仏兼
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