、孔雀をその象徴とす。欧州で孔雀の尾を不祥とするは、キリスト教で嫌う魔王の印しだからと考える(上に引いたハクストハウセンの書二六〇頁。一八四〇年ニューヨーク板サウスゲイトの『アルメニア等旅行記』一巻二二八頁。一九二一年刊『ノーツ・エンド・キーリス』十二輯八巻拙文「孔雀の尾」)。
予かつて故土宜法竜師の依頼でこのイエジジ宗の事を種々調べたが十分判らなんだ。一通り聞いたところを考察すると、その宗旨はざっと、上帝は至聖至善だから別段拝まないでも悪くは感ずまい、恐るべきは魔王で、こやつに立腹されると何を仕出かすか知れやしないから、十分|慇懃《いんぎん》に拝むがよいという心懸けらしく、かつ上に述べたごとく、こんな極悪の者でも何か往く往く間に合う見込みがあればこそ世にあるのだという想像で、これを拝むと時々|吉《よ》い事にも遇うので、魔王宗に凝り固まったと見える。パーシー宗徒は猫も鼠も魔物としながら猫ほどに鼠を忌まず(一六七六年パリ板タヴェルニエーの『波斯《ペルシア》紀行』四四二頁)。猫を特に嫌うよりの反動だ。それから上述露国の旧信者が油虫も天より福を持ち下ると言い、『日次紀事』に初寅の日鞍馬寺で
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