娥父の方へ帰ってその由を話すと、伯父が感心して三十両を工面して月娥に渡し、月娥夫の家に帰って房中でその銀を数え、厨内に収め、さて飯を炊《かし》ぎに掛った。隣家の焦黒てふ者壁間より覗《うかが》い知って、門より入り来りその銀を偸《ぬす》むを、月娥はその夫帰ってわが房に入ったと思いいた。頃刻《しばらく》して夫帰り、午飯を吃《きっ》した後、妻が夫を悦ばしょうと自室に入り見るに銀なし。どこへ持って行ったかと問うに夫は何の事か分らず、銀を取った覚えなしという。妻は夫がわが伯父が調達しくれた金でほかの女を妻に取る支度と心得、怒って縊死《いし》するところを近所の人々に救わる。その後焦黒雷に打たれて死し、腰に盗んだ銀包みがあったので事実が判った。衛思賢、可立夫婦の孝貞に感じ、三百金を可立に与え、自分が孕《はら》ませた子を成長後自分亡妻の子として引き取る約束で、可立の母房氏を可立方へ帰したとは、よく義理の分った人だ。
 かく鼠はよく物を盗む故、その巣から人に必要な物件を見出す事少なからず。前にもちょっと述べた通りハムステルてふ鼠は頬に大きな嚢ありて食物を猴《さる》の頬のように詰め込み得、常の鼠と異なり尾短し。北欧州やアジアのヒマラヤ以北に住み北欧のものは長《たけ》十五インチ尾三インチ、常の鼠より大きい。地中に込み入った巣を穿ち特に穀倉を造り、秋末に穀豆をその頬に押し込んで多量に貯え、その中に眠って極寒時を過し、二、三月になると寤《さ》めて居食いする。一疋で穀六十ポンド、また豆ハンドレッド・エートを蓄うるものありとは仰山《ぎょうさん》な。しかしこの事を心得た百姓は、その巣を掘って穀を過分に得、またその肉を常翫するから満更《まんざら》丸損《まるそん》にならぬ。これと別属ながら、同じ暮し方の鼠がアフリカにも西半球にもある。諸方で鼠が神や人に食物を与えた譚あるはこれに基づくか。支那にも一種全身鼠色で、尾やや長く欧州産の腹黒く尾短きに異なるハムステルあり。豆を好み穴倉に貯えるから豆鼠児、倉鼠児、倉官児、弁倉児など呼ばる(『皇立|亜細亜《アジア》協会北支那部雑誌』二輯十一巻五九頁)、天復中隴右の米作大豊年で、刈ろうと思う内、稲穂が大半なくなり大饑饉|出来《しゅったい》した。その時田畔の鼠穴を掘ると夥しく稲を蔵《かく》しあった。そこで人々鼠穴を窮め、五、七|斛《ごく》を獲る者あり、相伝えてこれを劫鼠倉といい、飢民皆出て鼠穴に食を求め済活甚だ多し(『類函』四三二)。『古事記』に、大国主神、須勢理毘売《すせりひめ》と婚するに臨み、今も蛮民間に行わるるごとく、姫の父|須佐之男命《すさのおのみこと》が、種々と大黒主神を苦しめてその勇怯を試みる中に、鳴鏑《かぶらや》を大野の中に射てその矢を採《と》らしめ、神がその野に入った時火で囲み焼く、神出る所を知らず火に困る所へ鼠来って、内はホラホラ外はスブスブといったからそこを踏むと落ち入りて地下に隠る、その間に火は燃え行き過ぎた。その時鼠が鳴鏑を持ち来りて奉ったとある。カフィル人の説に、昔創世の神イムラ金の馬に乗り、魔王ユシュ鉄の馬に乗り、競走するに勝負決せず、創世神無数の鼠を作り出し、鼠が地を穿ち穴だらけにしたので鉄の馬踏み込んで足立たず、ついに金の馬の勝ちとなったというも似た話だ(ロバートソンの『クルジスタンのカフィル』三八四頁)。リヴィングストーンの『南阿行記』七章に、マシュエ附近に鼠多く、その穴地下に充満して人歩むごとに足を陥《おとしい》るとある。神代日本にもそのような地があったので、大国主を鼠が救うた譚も出たのだ。支那には人が鼠の穴を掘って鼠を取り食い、また鼠の貯えを盗み食うた例多く、『法苑珠林』九一に、『薩婆多論』に一切鳥獣の残食を盗めば小罪を得とあるを註して、今時|世智辛《せちがら》くなり、多く俗人あり、鼠穴を毀壊《きかい》してその貯えた粟、胡桃《くるみ》、雑果子等を盗むはこの犯罪に準ずと記す。ついでにいう、奥州の和淵神社は大晦日《おおみそか》に鰹と鮭の子を塩して供え、正月十八日に氏子が社家に集り鰹と鮮魚を下げて食い、二十八日に鮭の子を卸して食う。それまで神前にある間は鼠が食わず、鼠を神が封じたからという。また大内で甲子の祭の夜、紫宸殿の大黒柱に供物を祭り、箏《こと》一張で四辻殿林歌の曲を奏す。これもと大極殿の楽なり。この曲を舞う時、舞人甲に鼠の形を付け、上の装束も鳶色の紗に色糸で鼠を幾つもあまた縫い付くるなり(『奥羽観跡聞老志』九。『淇園一筆』)。これは昔大極殿で舞った舞いを大黒天の好む舞いとし、大黒柱を祭って宮中を鼠が荒さぬようまじのうたと見える。一昨々年冬高野の金堂に詣《もう》で見ると、人の踏まぬ畳表が非常に損じ居る。同行の老僧からこれことごとく鼠の所為だと聞いた。人気少ない宮殿などは殊に鼠害が甚だしかっただ
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