な奴もありて、『雍州府志《ようしゅうふし》』に京の勝仙院住僧玄秀の時、不動尊の像の左の膝《ひざ》を鼠が咬んだ、秀、戯れに明王諸魔|降伏《ごうぶく》の徳あって今一鼠を伏する能わずといった、さて翌朝見れば鼠が一疋像の手に持った利剣に貫かれたので感服したと出づ。似た話があるもので、モニエル・ウィリヤムスの『仏教講義』に、インドの聖人若い時神像に供えた物を遠慮なく鼠が著腹《ちゃくふく》するを見て、万能といわるる神が鼠を制し得ざるに疑いを懐《いだ》き、ついに一派の宗旨を立てたとあった。羽後《うご》の七座山には勤鼠大明神の祠あり。これは昔七座の神に命ぜられて堤に穴を穿《うが》ち、湖を疏水《そすい》した鼠で、猫を惧れて出なんだので七座の神が鼠を捕らねば蚤《のみ》を除きやろうと約して猫を控えさせ、さて鼠族一夜の働きで成功した。因ってその辺の猫は今に蚤付かず。さてこの鼠神の祭日に出す鼠|除《よ》けの守り札を貼れば鼠害なしという(『郷土研究』三巻四二八頁)。守り札で銭をせしめる代りに買った者を煩わさない、ちょうど博徒様の仕方だ。大黒に関係なしと見える。欧州でも、ゲルトルード尊者、ウルリク尊者、またスコットランドのストラス・レヴェン洞に住し、上人いずれも鼠を退治すといい、その旧住地と墓に鼠近付かず、その土および供物のパン能く鼠を殺すと信ず(一九〇五年板、ハズリットの『諸信念および民俗』二巻五〇七頁、一八二一年板コラン・ド・プランシーの『遺宝霊像評彙』。ピンケルトンの『陸海紀行全集』三巻一五頁)。日本で正月に餅を鼠に祝う代りにこのパンを取り寄せて与えるがよかろう。
昔四国遍路した老人に聞いたは、土佐の山内家が幕府より受けた墨付百二十四万石とあった。百の字を鼠が食い去ったので百万石は坊主丸儲けとなった。故に鼠を福と称え殺すを禁じたと。『山州名勝志』二に、山城霊山辺の鼠戸長者、鼠の隠れ里より宝を獲て富んだ話あり。これは伏蔵を掘り当てたのだろう。プリニウスの『博物志』に、鼠、盗を好む余り、金山で金を食う。故に鼠の腹を剖《さ》いて金を獲《う》とある。昔インドの王子、朝夕ごとにわれに打たるる女を妻《めと》らんというに応ずる者なし。ようやく一人承知した女ありてこれに嫁《とつ》ぐ。二、三日して夫新妻を打たんとす。妻曰く、王子の尊きは父王の力だ。自分で金儲けて後始めて妾を打てと。道理に詰って王子象馬車乗
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