金沢辺の甚三郎という商人、貧しくなり、大黒天を勧請《かんじょう》して、甲子の日ごとに懇《ねんごろ》にこれを祀る。ある時また、甲子に当りて例のごとく燈掲げて一心に祈念するに、何処《いずこ》ともなく大きな白鼠|忽然《こつぜん》と出でて供物を食う。亭主これを見て大いに悦び、翌日友人を招きこの事を語り酒宴する。友達その白鼠は名のみ聞いて見た事なし、かつは物語の種なれば今宵祈って一目見せたまえというに、亭主|諾《うべな》い、その夜また燈を掲げ、各集り居るに案のごとく白鼠出で来る。人々見るよりアッといいて立ち騒ぐに驚き、この鼠逃げ帰るを見れば常の黒鼠となって去る。人々怪しみその跡を見るにうどんの粉多し。その通《かよ》うた壁の穴を求むると、隣りに饂飩《うどん》を商う家あり、その饂飩の粉の中に鼠棲んでこの家へ来る故白鼠と見えたと判り、皆々大笑いして帰った。亭主物うき事に思い歎くと、大黒天その夢に現じて、宵の鼠のうどん粉に塗《まみ》れ出でたるも、汝に富貴の道を教ゆべき方便であった。その鼠の通った跡を見るべしと教えられ、夜明けて見れば饂飩粉の上に鼠の足跡文字を顕わす、これを読むに「祈ればぞかかる例しに大麦の、身を粉に成して稼《かせ》げ世の中」。亭主これより遊興をやめ、一向商業を励んで富貴の家となった。人は神の徳に依って運を添うといいしは誠なるかなとある。怪しい話ながら動物崇拝など大抵こんな事で、金色の鼠王なども当時の中央アジア人に取っては、わが国王こそ毘沙門の正統で、現にその使物が生身でわれわれの供物を納受しましますという信念を堅め、中央アジアの文化を高むるに大いに力あった事と惟《おも》う。
 一九〇四年ロンドン発行、『人』雑誌一二二頁に、ギリシアのシクラデス諸島では、黒い諸動物は吉兆、白いのは不祥と信ずと記す。一八五九年板『ノーツ・エンド・キーリス抄記』一二頁に、英国の南ノーサンプトンで病室を白鼠が過ぐると見れば、患者必ず死すと信ずと載す。これらは流変《りゅうがわ》りで例外に近く、大抵の国民は白鼠を吉祥とする。『嬉遊笑覧』に、『太平広記』にいわく、白鼠身|皎玉《こうぎょく》のごとく白し。耳足紅色、眼※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》また赤きもの、すなわち金玉の精なり。その出づる所を伺い掘れば金玉を獲《う》べし、鼠五百歳なればすなわち白し。耳足紅からざるものは常鼠なり
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