兄|氏政《うじまさ》が三十三だから氏輝は三十歳ばかり、したがって夫人も二十七、八、縮れ髪たっぷりの年増盛りだったでしょう。〈婦女の身三種大過、何ら三と為す、いわゆる婦女の戸門寛大なる、両乳汁流るる、これ三種と名づく〉(『正法念処経』四五)、されば「都伝摸《とても》年増|東《と》夷辺伐《いえば》広|夷《い》様」その広夷《ひろい》野《の》に飽き果て散播都天門《さわっても》呉弩《くれぬ》と嘆《かこ》ちて自害した。氏輝は遺書を見て不便がり、一生女と交わらなんだとあるが、後年秀吉の命で自裁した時、愛童山角定吉十六歳、今打ち落した氏輝の首を懐《いだ》いて走った志を家康感じて罰せず、麾下《きか》に列したとある(『野史』一二六)は自分の家から火を出しながら大睾丸の老爺を負って逃げたので褒美《ほうび》されたような咄し。けだし氏輝は女は遠ざけたが、「若衆|遠《を》春留《する》波《は》構《かま》はぬ庚《かのえ》さる」小姓を愛し通したのだ。さて烏摩后首なき子の骸を抱いて泣き出し、諸神|倣《なろ》うてまた泣く時、ヴィシュヌ大神|金翅鳥《こんじちょう》に乗りてブシュパブハドラ河へ飛びゆき、睡り象の頭を切り、持ち来り、ガネサの頭に継いでよりこの神今に象頭だ。これ本邦慾張り連が子孫七代いかに落ちぶれても頓着《とんじゃく》せず、わが一代儲けさせたまえと祈って油餅を配り廻り、これを食った奴の身代皆自分方へ飛んでくるように願う歓喜天《かんぎてん》また聖天《しょうてん》これなり。今もインド人この神を奉ずる事盛んで、学問や事始めや障碍《しょうげ》よけの神とし、婚式にも祀《まつ》る。障碍神《しょうげじん》毘那怛迦《びなたか》も象鼻あり。象よく道を塞《ふさ》ぎまた道を開く故、障碍除障碍神ともに象に形どったのだ。日本でも聖天に縁祖また夫婦和合を祈り、二股大根を供う(一八九六年板クルックの『北印度俗教および民俗』一巻一一一頁。アイテル『梵漢語彙』二〇二頁。『増補江戸咄』五)。その名を商家の帳簿に題し、家を立つる時祀り、油を像にかけ、餅や大根を供うるなどよく大黒祭に似る。また乳脂で※[#「火+喋のつくり」、第3水準1−87−56]《あ》げた餅を奉るは本邦の聖天|供《ぐ》の油※[#「火+喋のつくり」、第3水準1−87−56]げ餅に酷似す。その像《かたち》象首一牙で、四手に瓢と餅と斧と数珠をもち、大腹黄衣で鼠にのる(ジャ
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