うぶきゃらおんな》』四に、大阪新町太夫の品評が、槌屋理兵衛方に及んで「したるい目付き掃部さま、これが槌屋の大黒なり」と、この娼を家の大黒柱に比べおる。四壁庵の『忘れ残り』上巻に、吉原江戸町三丁目佐野槌屋の抱《かか》え遊女|黛《まゆずみ》、美貌無双孝心篤く、父母の年忌に廓中そのほか出入りの者まで行平鍋《ゆきひらなべ》を一つずつ施したり、「わがかづく多くの鍋を施して、万治この方にる者ぞなき」とほめある。これらよりもずっと著われたは安永二年|菅専助《すがせんすけ》作『傾城恋飛脚《けいせいこいのたより》』で全国に知れ渡り、「忠兵衛《ちゅうべえ》は上方者《かみがたもの》で二分残し」とよまれた亀屋の亭主をしくじらせた北の新地槌屋の抱え梅川《うめがわ》じゃ。
 槌は只今藁を打ったり土を砕いたり専ら農工の具で、大高源吾が吉良《きら》邸の門を破ったり、弁慶が七つ道具に備えたりくらいは芝居で見及ぶが、専用の武器とは見えず。
 だが昔大分地方の鼠の岩屋等の強賊、皇命に従わざりしを景行天皇ツバキの槌を猛卒に持たせ誅殺した事あり(『書紀』七)、この木は今も犬殺しも用い身に極めて痛く当る。『史記』には槌を以て朱亥《しゅがい》が晋鄙を殺し、劉長が審食其《しんいき》を殺した事あり。北欧の雷神トール百戦百勝するに三の兵宝あり。まず山を撃たば火が出る大槌、名はムジョルニルで、トールこれを以て山と霜の大鬼を殺し、また無数の鬼属を誅した。次は身に巻けば神勇二倍する帯で、第三には大槌を執る時の手袋だ(マレーの『北欧考古編』ボーンス文庫本四一七頁)。わが邦でも時代の変遷に伴うて兵器に興廃あり。砲術盛んならぬ世には槍を貴び、何人槍付けたら鼈甲《べっこう》柄の槍を許すとか、本多平八の蜻蜒《とんぼ》切りなど名器も多く出で、『昭代記』に加藤忠広封を奪われた時、清正伝来の槍を堂の礎にあて折って武威の竭《つ》きたるを示したとある。槍より先は刀剣で剣の巻など名刀の威徳を述べて、これさえあれば天下治まるように言いおり、また弓矢を武威の表徴のごとく言った。支那でも兵器の神威を説いたもので、越王泰阿の剣を揮《ふる》えば敵の三軍破れて流血千里といい、湛盧の剣は呉王の無道を悪んで去って楚に往ったといい、漢高祖が白蛇を斬った剣は晋の時自ら庫の屋を穿って火災を遁《のが》れ飛び去った由(『淵鑑類函』二二三)。漢より晋までこの剣を皇帝の象徴
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