大婬で高名な則天武后|親《みずか》ら上東門外に迎えたほどの傑僧で、『寄帰内法伝』は法師がかの地で目撃した所を記した、法螺《ほら》抜きの真実譚だ。石橋君の著にはその大黒様の所を抄出したままで誤字も多少あれば、今は本書から引こう。いわく、また西方諸大寺皆食厨の柱側あるいは大庫の門前に木を彫りて二、三尺の形を表わし神王となす。その状坐して金嚢を把《と》り、かえって小牀《しょうしょう》に踞《きょ》し、一脚地に垂《た》る。毎《つね》に油を以て拭《ぬぐ》い、黒色形を為《な》し、莫訶歌羅(マハーカーラ、大神王の義)という。すなわち大黒神なり。古代相承していわく、これ大天(ヒンズー教のシワ大神)の部属で、性三宝を愛し、五衆を護持し、損耗なからしむ。求むる者情に称《かな》う。ただ食時に至り厨家ごとに香火を薦《すす》むれば、あらゆる飲食《おんじき》随って前に列すと。すなわち大黒神は今もインドで大陽相を以て表わして盛んに崇拝するシワの眷属ながら、仏法を敬し、僧衆を護り、祈れば好いたものを授ける、台所で香火を供えて願えば、たちまち飲食を下さるというのだ。さてこの辺から義浄はただ聞いたままを記すという断わり書きがあって、かつて釈尊|大涅槃《だいねはん》処へ建てた大寺はいつも百余人の僧を食わせいたところ、不意に五百人押し掛けたので大いに困った。ところが寺男の老母がこんな事はいつもある、心配するなというたまま多く香火を燃し、盛んに祭食を陳列して大黒神に向い、仏涅槃の霊蹟を拝みに多勢の僧がやって参った、何卒《なにとぞ》十分に飲食させて不足のないようにと祈り、さて一同を坐せしめ、寺の常食を与うると食物が殖えて皆々食い足ったので、揃《そろ》うて大黒天神の力を称讃したとある。すこぶる怪しい話だが、今の坊主連と異なり、その頃の出家はいずれも信心厚く、行儀も良かったから、事に慣れた老婆の言を信じ切って、百人前の食物が五倍六倍に殖えた事と思い定めて、食って不足を感じなかったものだろう。寺の住職の妻を大黒というも専ら台所を司《つかさど》って大黒神同様僧どもに腹を減らさせないからで、頃日《けいじつ》『大毎』紙へ出た大正老人の「史家の茶話」に『梅花無尽蔵』三上を引いて、足利義尚将軍の時、既に僧の妻を大黒と呼んだと証した。いわく、長享二年十一月二十八日、宿房の大黒を招き、晨盤を侑《すす》む。その体《てい》蛮のごとし、
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