でないといい、故竹添進一郎氏の『左氏会箋』一四に引かれた銭※[#「金+奇」、第3水準1−93−23]の説に今の牛宿の星群は子宮にあって丑宮にあらず、周の時|元※[#「木+号」、344−7]《げんきょう》という星が虚宿二星の一たり、※[#「木+号」、344−7]は耗《こう》で鼠は物を耗《へら》し虚《むな》しくする、当時この星群が子宮にありたればこそこんな名を付けた、しかるに今は子宮にあらずして亥宮にある。また豕韋《しい》という星は周の時亥宮にあり、亥は猪、すなわち豕に当るからかく名づけた。しかるに今は戌宮に居る、かく一宮ずつ星宿の位置が後《おく》れて来たのを勘定すると、周時代に正しく星宿の位置に拠って十二辰を定めたのだとある。すなわち十二禽は周の時十二支に当てられたのだ。予は天文の事はあんまりな方だが、幼年の頃|就《つ》いて学んだ鳥山啓先生、この人は後に東京へ出て華族女学校に教務を操り八、九年前歿せられたが、和漢蘭の学に通じ田中芳男男も毎《つね》に推称された博識だった。この先生予|輩《ら》に『論語』に北辰のその処に居りて衆星これに向うがごとしとあるを講ずるついでに、孔子の時は北辰が天の真中にあったからこう言われた、只今は北辰の位置がすべって句陳という星が天の真中に坐り居ると説かれた。漢の石申の『星経』上に句陳は大帝の王妃なりとあれば新しい女どもが跋扈《ばっこ》するももっとも、天さえ女主に支配さるる当世だと見える。かく星宿の名と古今星宿の位置の変移から推した銭氏の説は誠に正説で、クラーク女史が「支那で日の黄道《こうどう》を十二分し、十二禽の名を付け、順次日の進行に逆ろうて行くとしたは珍無類のやり方で支那に起りしや疑いなし」といったごとく(『大英百科全書』十一板、二八巻九九五頁)十二禽なる具体的の名から離れて十二支なる抽象的の象徴を周の支那人が大成したのだ。かくて日本、カンボジア、蒙古人等が鼠牛虎兎というと異なり、子丑寅卯と形而上の物の名で数える事となってより十二支と十二禽を離して念ずる事が出来た。これは日本人がネの日ウシの時といわば多少鼠と牛を想い出せど、字音で子午線と読んではたちまち鼠と馬を連想せず、午前午後と言ったって決して馬の陽物と尻の穴を憶い出せぬで判る。かく十二禽から切り離して十二支の名目を作ったは支那人の大出来で、暦占編史を初めその文化を進むるに非常の力を添
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