十二支考
鼠に関する民俗と信念
南方熊楠
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)趙翼《ちょうよく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)幼年の頃|就《つ》いて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「こざとへん+亥」、343−5]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)朝な/\
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明けまして子年となると、皆様一斉に鼠を連想する。子の年は鼠、丑の年は牛と、十二支に十二禽を割り当る事、古く支那に起って、日本・朝鮮・安南等の隣国に及ぼし、インドやメキシコにも多少似寄った十二物を暦日に配当した事あれど、支那のように方位に配当したと聞かぬ(拙文「四神と十二獣について」)。清の趙翼《ちょうよく》の『※[#「こざとへん+亥」、343−5]余叢考』三四にいわく、『春風楼随筆』に、『唐書』にキルギス国では十二物で年を紀して寅年を虎年という。『宋史』に吐蕃《とばん》では兎の年に俺が生まれた、馬の年に隣りの七兵衛が妻を娶ったなどいう。邱処機が元の太祖に奏した疏《そ》に竜児の年三月日奏すとあり、元の時泰山に立てた碑に泰定鼠児の年、また至正猴児の年とあり、北方諸国には以前子丑寅卯の十二支なく専ら鼠牛虎兎の十二禽で年を紀した。それが支那に伝わり十二支と合併したのじゃと見える。しかし周達観の『真臘風土記《しんろうふどき》』にカンボジアでも鼠牛虎兎で年を紀す事全く支那同様、ただ馬をモミー、鶏をロカなどその国語で呼ぶだけ異なりとあれば北方に始まったのでないとある(一八八三年板、ムーラの『柬埔※[#「寨」の「木」に代えて「禾」、343−12]《カンボジア》誌』一巻一五七頁参照)。十分断言しておらぬがまずは十二禽で歳時を紀す風は支那に起って南北諸隣国へ弘まったというのだ。それから『叢考』に十二禽を十二支に当てるは後漢に始まったと論じた。しかし『古今要覧稿』五三一に、前漢の書『淮南子《えなんじ》』に山中で未の日の主人と称うるは羊なりといい、戦国の頃『荘子』が〈いまだかつて牧を為さずして※[#「爿+羊」、第4水準2−80−15]《そう》奥に生ず〉といえるを『釈文』に西南隅未地といえれば羊を未に配当したは後漢に始まった
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