なしと追々勘付き出し、急に頭を擡《もた》ぐるとたちまち幻像は消え失せたが跡に依然何か舞うて居る。いよいよ起きてその窓に歩み寄ると、室内たちまち真闇《まっくら》で咫尺《しせき》を弁ぜず。色々捜して燈を点《とも》しよく視《み》ると、昼間鶏が二階のこの室に走り込んで突き破って逃げ飛んだ硝子《ガラス》窓の破処から、吹き込む雪|雑《まざ》りの寒風がカーテンに当って上り下りしおりその風の運動が件《くだん》の両人の立ち廻りと現われ、消え失せた後もなお無形の何かが楕円軌道を循環すると見えた。
 錯覚といえば、それなりに済ましてしまうべきも、われら四十五、六歳までは或る一定の程度において嚢子菌の胞嚢を顕微鏡なしに正しく見得た。こんな異常の精眼力には風中の雪の微分子ぐらいの運動の態が映ったかも知れず、豕が風を見るというのもまるで笑うべからず。予の眼力の驚くべく良《よ》かった事は、一九一四年『英国菌学会事報』七〇頁と、一九一八年『エセックス野学倶楽部特別紀要』一八頁に、故リスター卿の娘でリンネ学会員たるグリエルマ嬢が書き立て居る。[#地から2字上げ](大正十二年四月、『太陽』二九ノ四)

       3

前へ 次へ
全90ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング