した。絆《きずな》を解いて山へ帰るかと見るに、直ちに家へ還った事毎々だったと。予が現に畜《か》う雄鶏は毎朝予を見れば啄《つつ》きに来る。いずれも怪しからぬ挨拶のようだが、人間でさえ満目中に口を吸ったり、舌を吐いたり、甚だしきは唾《つば》を掛くるを行儀と心得た民族もあり、予などは少時人の頭を打つを礼法のごとく呑み込んでいた事もあるから、禽獣の所為を咎《とが》むべきでない。唐五行志に、乾符六年越州山陰家に豕あり、室内に入って器用を壌《やぶ》り、椀缶《わんふ》を銜《ふく》んで水次に置くと至極の怪奇らしく書き居るが、豕が毎《つね》に人の所為を見てその真似をしたのであろう。
仏人が、トルーフル菌を地下から見出すに使うた犬の代りに豕を習わして用うるは皆人の知るところで、嗅覚がなかなか優等と見える。ホーンの『ゼ・イヤー・ブック』一八六四年版一二六頁に、豕能く風を見るてふ俚言を載す。豕の眼は細いが風の方向を仔細に見分くるのであろう。人間にも一つの感覚で識《し》るべき事相を他の感覚で識り得るのがあって、ある人妻の体内にある故障ある時、何となく自分の口中にアルカリ味を覚えるあり。
三十三年前、予米国ミ
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