う。矢背《やせ》に老婆あり薪《たきぎ》を負いて毎《つね》に応挙が家に来る。応挙婆に野猪の臥したるを見た事ありやと問うに時折は見るという。重ねて見付けたら速やかに知らせよと頼む。一月ばかりして走り来りわが家の後の竹篁《たかむら》中に野猪臥すと告げた。応挙由って矢背に至り臥猪を写生し、家に帰りて清画しおわった処へ鞍馬《くらま》より老人来る。汝野猪の臥したるを見たるかと問うに毎《つね》に見ると答う。すなわち画を示すを翁熟視してこの画よく出来たが臥猪でなくて病猪だという。応挙驚いてその故を問うに翁曰く、野猪の叢中《そうちゅう》に眠るや毛髪憤起、四足屈蟠、自ずから勢いあり。かつて山中で病猪を見たるに実にこの画のごとしと。応挙初めて暁《さと》り翁に臥猪の形容を詳しく聞き、専らその口伝《くでん》に拠って更に臥猪を画く。四、五日して矢背の老婆来り、怪しむべしかの野猪その翌朝篁中に死んだと告げた。これを聞いていよいよ翁が卓見を感じ、再びその音信を俟《ま》つに十日ばかりして翁また来る。応挙後に出来た図を示すと翁驚歎してこれ真の臥猪なりという。その画もっとも奇絶、今なお京都某家にあり。挙が画に心を用いし事かくのごとし(『嘯風亭話』)。また西定雅の話に、応挙若かりし時野馬、草を食《は》む所を画いた。一翁これは盲馬だと難ず。その訳は馬は草で眼を害せぬように眼を閉じて草を食いに掛かる。この馬は眼を開きながら草を食うから盲目と断じたと。応挙深くその説を感ず。そもそもこの二翁何人ぞ野夫にも功の者ありとはこれらをやいうべきと出づ。千河岸貫一氏の『日本立志編』には、応挙鶏を額に画いて祇園神社に掲げ、毎《つね》に窃《ひそ》かに詣《もう》でて衆評を聞くと、画は巧いがまだ足りぬ処ありと呟《つぶや》いて去る者あり。走り付いてその説を敲《たた》けば多年鶏を畜《か》う人で、われは鶏の羽色が四季に応じて変るを熟知す。この鶏の羽色と側に描いた草花と時節が合わぬと言ったので応挙厚く謝したとあったと覚える。
 寛文二年板『為愚痴物語』四に能の太夫鼻金剛という名人、毎に人を観客中に混在せしめ、衆評を聞いた上己れに報ぜしめて難癖を直す。ある時その人々に今日の評はと聞くと今日は誰一人|誉《ほ》めない者はなかったと答う。その内一人いわく、ただ一人能に難なけれど男が少し小さいばかりの難があるといったと。太夫聞いてさては我が能まだ上手に達せずと。人々男の小さきは生まれ付きなり、能の上手下手に係らずやと問うと、太夫、善知鳥《うとう》の曲舞《くせまい》に鹿を追う猟師は山を見ずという古語を引き居る。鹿に全く心取らるれば山の有無も知れぬものだ。我が芸まことに上手なら見物はそれに心取られてわが男の大小などに気付かぬはずだ。我が芸未熟なればこそ男の小さきが目に立ったのだと語るを聞いて、皆人誠に物の上手は別な物と感心したそうだ。
 舜は邇言《じげん》を察したとか。今日書物で読んでさも自分が煉《ね》り出したように、科学の学識のと誇る事どもも皆過去無数|劫《こう》の間不文の衆人が徐々に観察し来った功績の積もった結果だから、読書しない人の言を軽んずべきでなく、未開半開人も驚くべき経験上の知識を持ち居る例多い。お江戸日本橋七つ立ち、初《はつ》上りの途に著いてから都入りまで五十三駅の名を作り入れた唄を、われら学生の時唄いながら箱根山を下駄穿《げたば》きで越えて夏休みに帰国したものだ。その内に「上る箱根の御関所でちょいとまくり、若衆の物では受け取れぬ、こちゃあ新造でないかとちょと三島」てふ名句があった。箱根の関を婦女が通るは厳禁で、例せば文政十一年本多近江守長崎奉行勤務中、その足軽《あしがる》島田|惣之助《そうのすけ》は舞袖事たき十九歳、同じく西村新三郎は歌扇事かね二十歳という娼妓を買いなじみ、たきは夫婦約束、かねは身請けされて親元に在《い》たところ、十二年十月男二人とも出立に付き、たき惣之助を慕い駈落してかねに落ち合い、たきは若衆姿に化けて関所を通り、両人とも江戸へ著いた咎《とが》で奴《やっこ》にされ、惣之助は二十七歳で死刑と天保二年筒井伊賀守役宅で宣告された(『宝暦現来集』二一)。かかる犯罪予防のため関所で少年姿の秘部を検したから「ちょいと捲《まく》り云々」と唄うたものだ。『明月記』に天福元年十一月御法事の夜僧房の童が女の姿で堂上に昇り、大番武士に搦《から》めらるとあり。『書紀』に小碓命《おうすのみこと》少女の装いで川上|梟師《たける》を誅《ちゅう》したと出で、婦女男装して復仇したり、役者が女装して密通したりなど往々聞くが(『拾遺|御伽婢子《おとぎぼうこ》』三の三、『甲子夜話』続二一)、多くはその場だけで事済み、外国のような大騒ぎ社会を害毒するの甚だしきに至らぬ。エジプト等の回教国には婦女閉居して男子を見ず。女客の
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