兵庫浦で目の内五尺八寸という鯛がとれて大阪のざこ場《ば》へ出した時、問屋の若い者きおい仲間人これを求め、六人掛かりで料理せしが、中に一人この大鯛のあらの料理を受け取り、頭を切りこなす時、魚のえらを離しさまに手の小指を少し怪我《けが》しけるが痛みは苦にせねど何がな口合《くちあい》がいいたさに南無三《なむさん》、手を鯛のえらでいわしたア痛い、これはえらいたい、さてもえらい鯛じゃといったが、この鯛の大きな評判に連れてこの口合がざこ場中になり、それから大きな物さえ見るとこれはえらい、さてもえらい物じゃといい出して大阪中の噂になり、後《のち》日本国で今はえらいという俗言が一つ出来《しゅったい》せし由、しかれば古き喩えはいずれも故実のある事、今様の俗言も何なりと拠《よりどころ》のある事ならん云々」と見える。この本を出版と同年に書いたと見て繰り合すと安永五年より四十九年前は享保十二年に当る。その年より前に果してえらいてふ語がなかったか知らぬが、魚のえらからエライという形容詞を転成するような事も世間にないと限らず。殊に京の人をまねて田舎にチャッチャムチャクなる語がはやり出したとはありそうな事で、高橋入道の討ち死にがこの辺で大抵の人に通用すると同例だから、俗語の根源と伝播は当身確かな記録があるにあらざれば正しく説き中《あて》る事すこぶる難い。これを強いて解きに掛かるより豕がオルガンを奏すてふ俚語におけるごとく、諸説紛々たるも今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《およ》んでいずれが正解と判断し能わぬ。
『日本紀』七に日本武尊東征の帰途、毎《つね》に水死した弟橘媛《おとたちばなひめ》を忍びたもう。故に碓氷嶺《うすひね》に登りて東南を望み三たび歎じて吾妻《あずま》はやといった。爾来東国を吾妻の国というと見える。故浜田健次郎氏か宮崎道三郎博士かの説に、韓語で日出をアチムというから推して本邦上古日出をアツマといったと知れる。したがって日出処の意で東国をアツマノクニといった本義は早く忘却され、強いてこれを解かんとて日本武尊の事をこじつけたとあった。『太平記』などに関所として著名な樟葉《くすば》という地あり。『日本紀』五に彦国葺《ひこくにぶく》が武埴安彦《たけはにやすびこ》を射殺した時、賊軍怖れ走って屎《くそ》を褌《はかま》より漏らし甲《よろい》を脱いで逃げたから、甲を脱いだ処を伽和羅《かわら》といい、屎一件の処を屎褌《くそばかま》という。今樟葉というは屎褌の誑《あやま》りだとあり。『播磨風土記』に神功《じんぐう》皇后韓国より還《かえ》り上りたもう時、舂米女《いなつきめ》等のくぼを陪従《おもとびと》婚《くな》ぎ断ちき、故に陰(くぼ)絶ち田と地名を生じたと出るなども同様の故事附けで多くはあてにならぬが、今日の南洋諸島人と斉しくこれらの解説が生じた頃寄ると触ると屎とかくぼとか言うて面白がりいた証拠になる。同書に手苅《てがり》の丘は近国の神ここに到り、手で草を刈って食薦《すこも》と為《な》す故に名づく、一にいわく、韓人ら始めて来りし時鎌を用ゆるを識らず、ただ手を以て稲を刈る故に手刈村というと。ノルトンの豕と等しく早く既に解説が一定せなんだのだ。
 内典を閲するに、仏や諸大弟子滅後久しからぬにこんな故事附けが持ち上ったと見え、迦多演那尊者《かたえんなそんじゃ》空に騰《のぼ》って去る時、紺顔童子師の衣角を執って身を懸けて去る。時に人々遥かに見て皆ことごとく濫波底と言う。懸けるという事だ。それより北インドに、濫波という国名が出来たと見ゆ(『根本説一切有部毘奈耶』四六)。今一つ豕に因んだ例を挙げんに、ホーンの『テーブル・ブック』一八六四年版一九〇頁にいわく、数年前エールス人ダヴッド・ロイドが、ヒャーフォードで、六脚ある牝豕をその一膳飯店に飼ったからたまらない。見物かたがた飲食に出掛ける人|引《ひき》も切らずと来た。ところが、ダヴッドの妻、怪しかる飲んだくれでしばしばなぐっても悛《あらた》まる気遣いなし。一日例のごとく聞《きこ》し召し過ぎ、例の打擲《ちょうちゃく》がうるさいから檻《おり》の戸を開けて六脚の豕を出してその跡に治まり返る。折節《おりふし》一群の顧客噂に高い奇畜を見に来り、ダヴッド大恐悦の余り何の気も付かず欄辺に案内し、皆さんこれまでこんな活き物を御覧にならないでしょうというと、かみさんが大の字になってグウグウと高鼾《たかいびき》の体《てい》、観者の内の一百姓「ホンに貴公のこの牝豕ほど酔うたのは生来一度も見ない」といった。それからダヴッドの牝豕ほどずぶ酔いてふ俚言が起ったと。これも何だか跡から牽強《けんきょう》のよう想《おも》わる。
 馬琴の『蓑笠両談』二に、丸山応挙に臥猪《ふしい》の画を乞う者あり。応挙いまだ野猪の臥したるを見ず心にこれを想
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