、中沢・八木二氏共著『日本考古学』三〇四頁)。されど家猪を飼う事早く絶え果てたから正にイと名づくるものがなくなり、専らイノシシすなわち野猪をイと呼び、野猪の子をイノコと心得るに至った。したがって近代普通に亥歳の獣は野猪と心得、さてこそ右様の電文も発せられたのだ。
本篇を読む方々に断わり置くは、猪の事を話すに一々家猪、野猪を別つはくだくだしいが、特に野猪と書いた場合はイノシシに限り、単に猪と書いたのは家猪野猪を並称し、もしくはいずれとも分らぬを原文のまま採ったのである。豕と書いたのは家猪の事、豚はもと豕の子だが世俗のままにこれも家猪に適用して置く。
近世豚の字を専らブタと訓《よ》む。この語|何時《いつ》始まったかを知らぬ。『古今図書集成』の辺裔《へんえい》三十九巻、日本部彙考七に、明朝の日本訳語を挙げた内に、羊を羊其《ようき》、猪を豕々《しし》として居る。その頃支那人が家猪を持ち来ったのを、日本人が野猪イノシシの略語でシシと呼び、山羊をヤギと呼んだのだ。古くは野牛と書き居る。綿羊のみをヒツジと心得て、山羊を牛の類と心得たものか。『大和本草《やまとほんぞう》』十六にこれ羊の別種で牛と形と相類せずと弁じ居る。やや新しそうに思われたヤギなる称が、明の時代既に日本にあったと知ってより、ブタという名もその頃あった証拠はないかと血眼《ちまなこ》になって捜索すると、本願空しからずとうとう見出しました。それは『奥羽永慶軍記』二に最上義光《もがみよしみつ》、延沢能登守信景の勇力を試みんとて大力の士七人を選出す。「一番に裸《はだか》武太之助、この者鮭登典膳与力にてその丈七尺なり、今東国に具足屋なし、上方には通路絶えぬ、武具調うる事なかれば、戦場に出づるに素肌に腰指《こしざし》して歩《かち》にて出陣すれども、いつも真先に駈けて敵を崩さずという事なし、本名は高橋弾之助英国といいけるが、素肌にて働く故人皆裸とはいうなり、余り肥え脹《ふく》れし故|豕《ぶた》という獣に似たりとて豕之助と名付けしを、義光文字を改めて、武太之助と戯れける」。これがヤギと等しく、ブタという畜生の名が明《みん》の代既に日本にあった証拠で、義光は飯田忠彦の『野史』一六五に拠れば、大正十二年より三百九年前に当る慶長十九年正月六十九歳で死んだ。明の神宗の万暦四十二年に当る。体が太った者をブタと名付けたのを見ると、肥え脹れた
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