わち持斎す。非時に食を与うれども食わず、ただ浄水を得飲まんと欲するのみ。後日斎を解くに至り、粥《かゆ》を与えて始めて喫す。かつ寺内先に数猛狗あり、ただ一の很狗《こんく》を見るも競うて大いに吠え囓まざるなし。もしこの狗寺に入るを見ればことごとく住《とど》まり低頭|掉尾《ちょうび》すとある。タヴェルニエー等の紀行に、回教徒の厳峻な輩は、馬にさえ宗制通りの断食を※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]行《れいこう》する趣が見える。習い性となる、で、件《くだん》の犬も、持斎すべく育てられたのであろう。
 サウシーの『コンモン・プレイス・ブック』四輯に、コングリーヴの一犬ペンクリッジ寺の修繕一年に竟《わた》り誰も詣でざるに、日曜ごとに独り欠かさず詣でたと載す。またその二輯に、メソジスト派起りてほどもなく、ブリストル辺でその教会に詣る者しばしば一犬遠くより来会するを見た。その家人は、メソジスト派に無関心だったから犬独り来った。当時安息日に、国教寺院の勤行《ごんぎょう》終ると直ぐこの派の説教始まり、その都度欠かさずこの犬が来たからメソジスト犬と称えられた。来会の途で、ちょうど寺院から帰る子供に逢うごとに、罵《ののし》られ石を抛《な》げられた。一夕試みに会処を移したが、時刻を差《たが》えず犬がその家へ来た。数週後に、その飼い主がリーズの市場から酔うて還るとて小川に溺死すると、怪しむべしそれから一向犬が説教を聴きに来なんだ。その理由として諸説紛起したが、ジョン・ネルソンは、この犬かく定時に教会へ来て飼い主を不思議がらせ、それより彼をして正教に化せしめんと謀《はか》ったのだ。その心配が飼い主の変死で無になったので、さっぱり来会しなくなったのだと言ったと載す。畜生時として、人より賢いと見える。
 一七三二年版チャーチルの『海陸紀行全集』一に収めたバウムガルデンの紀行に、ロデスの城にヨハネ派の大教主住み、近島多くこれに服す。トルコ境に接して聖ペテロ砦を築き、多くの犬を飼う。その犬至って智あり、夜分これを放てば敵国に入り、回徒に遭わば必ず襲うてこれを片砕すれど、キリスト教徒を嗅ぎ知りて害せず、守護し導いて砦まで送り届く。一たび鈴鳴を聞かば群犬たちまち聚《あつ》まり、食事しおわりて各その受持の場に趣く事斥候間諜に異ならず。トルコ人に囚われたキリスト教徒機会を得て忍び脱れ、犬に助けられて還る者多く、予かの地にあった時も、一人かくして露国より逃げ来ったを見たと。
 ベーコン卿の『シルヴァ・シルワルム』に、犬が犬殺しを識るは普通に知れ渡った事で、狂犬荒るる時|微《ひそ》かに卑人を派して犬を殺さしむるに、かつて犬殺しを見た事もなき犬ども集り来て吠え奔《はし》ると。『程氏遺書』に曰く、犬屠人を吠ゆ、世に伝う、物ありこれに随うとは非なり、これ正に海上の鴎《かもめ》のごときのみと。これは宋人が屠者には殺された犬の幽霊が降《つ》き歩く、それを見て犬が吠えるといったに対して程子は、『列子』に見えた海上の人鴎に親しみ遊んだが、一旦これを捕えんと思い立つと鴎が更に近付かなんだ例に同じく、屠者に殺意あれば犬直ちにこれを感じ知ると考えたのだ。予もかつて、ある妖狐を畜《か》って富を致す評ある人が町を通ると、生まれて数月なる犬児が吠え付き、その袖や裾に噛み付いて息《や》まず、それを見いた飼主が気の毒がってその犬児を棄てた始終を黙って見届けた事がある。狐に富を貰《もら》うなどの事は措《お》いて論ぜず、とにかく犬などには人に判りにくい事を速やかに識る能力があるらしい。ちょうど大人の眼に付かぬ微物を小児が疾《と》く見分くるようなもので、大いに研究を要する事だ。それから『大清一統志』三五五、〈意太利亜《イタリア》の哥而西加《コルシカ》に三十三城あり、犬の能く戦うを産す、一犬一騎に当るべし、その国陣を布くに、毎騎一犬を間《まじ》う、反《かえ》って騎の犬に如《し》かざるものあり〉。その頃の西洋地理書から訳出したものらしいが、欧州の博識連へ聞き合したるも今に所拠が知れぬ。御存知の方は教示を吝《おし》むなかれ。
 陶淵明の『捜神後記』上にいわく、会稽句章の民、張然、滞役して都にあり、年を経て帰り得ず、家に少婦ありついに奴と私通す、然都にありて一狗を養うに甚だ快し、烏竜と名づく、のち仮に帰る、奴、婦と然を謀殺せんと欲す、飯食を作り共に下に坐し食う。いまだ※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《く》うを得ず、奴戸に当り倚《よ》って弓を張り箭《や》を挟み刀を抜く、然、盤中の肉飯を以て狗に与うるに狗※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]わず、ただ睛《ひとみ》を注ぎ唇を舐《ねぶ》り奴を視《み》る、然、またこれを覚る、奴食を催す転《うた》た急なり、然、計を決し髀《もも》を拍《う》ち大いに喚《よ》んで烏
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