と信じたのだ。八文字屋本《はちもんじやぼん》などに吉原遊廓を北洲と号《な》づけいるはこの訳で、最も楽しい所の意味だろう。
しかるに、『起世因本経』八には北洲が吾人の住む南洲に勝る事三つ、一には彼人我我所なし、二には寿命最も長し、三には勝上行あり、南洲が北洲に勝る事五つ、一には勇健、二には正念、三には仏出世の地たり、四にはこれ修業の地なり、五には梵行を行する地たりとあって、差し引き吾人の住む天下が、北洲に勝る事多しとした。これは出世間《しゅつせけん》の宗旨から立てた見解だが、世間法に言い替えても余りに平等ばかりの社会には、奮発とか、立志とか、同情とか、高行とかいう事がなくなり、虫介同様一汎に平凡の者ばかりとなるから、人々ことごとく『楼炭経』にいわゆる自分|天禀《てんぴん》の福力ない以上は、天変地異その他疾病を始め一切自然に打ち勝ちて、社会をも人間をも持続する見込みが立つまい。さればこそ経文にも自然の米とか、光りで飯を煮る珠とか、七日続けて交歓するの、四辻に赤子を置かば往来の人が指から乳を含ませくれるの、糞小便は大地、死人は鳥が始末してくれるのと、現世界にまるでない設備を条件として、さて北洲ごとき結構極まる社会が立ち行くと説かれた。科学の進歩無窮なれば全く望まれない事でなかろうが、近頃ようやく出で来た無線電話、飛行船、ラジウム、防腐、消毒、光線分析、エッキス光線くらいを、現代の七不思議として誇る(『ネーチュール』九十巻九一頁)ほどでは前途遼遠で、それで以て平等世界を湧出せんとする者は、護摩を以て治国を受け合い、庚申《こうしん》像を縛って駈落者《かけおちもの》の足留めしたと心得ると五十歩百歩だ。
さて前年刑死されたある人が、真正の平等社会が出来たら、利慾がなくなるから精神を有効に使う者がなくなるでないかとの問いに対し、財物を獲《う》べき利慾はなくなるが知識を進めて公益を謀る念はますます切になる故、一切平等で生活のため後顧せず、安心して発明発見を事とし得ると言ったと聞くが、いくら社会が平等になっても人々の好みと精力が平等にもならず、手品や落し咄なら知らぬ事、耕さずに熟する米や、光で飯を煮る珠、また食っても尽きぬ飯を、生活一切|頓著《とんじゃく》なければとて、碁《ご》将棊《しょうぎ》同様慰み半分に発明し発見し得るだろうか。とにかく仏徒は鬱単越洲《うったんのっしゅう》を羨《うらや》み、殊に耕さずに生ずる自然粳米ありと聞いて、それが手に入ったらこんな辛労はせずに済むと百姓どもが吐息ついたので、今も凶年に竹の実をジネンコと称えて採り食らうは自然粳《じねんこう》の義で、余り旨《うま》い物でないそうだからこの世界ではとかく辛労せねば碌な物が口に入らぬと知れる。竹実の事は白井博士の『植物妖異考』上に詳し。
さて仏の命に従い、五百の乞食上りの比丘《びく》が、北洲に往って、自然成熟の粳米を採り還って満腹賞翫したので、祇陀《ぎだ》太子大いに驚き、因縁を問うと、仏答えて、過去|久遠《くおん》無量無数不可思議|阿僧祇劫《あそうぎこう》と念の入った長い大昔、波羅奈《はらな》国に仙山ありて辟支仏《びゃくしぶつ》二千余人住む。時に火星現じた。この星現ずる時|旱《ひで》りが十二年続いて作物出来ず、国必ず破るという。散檀寧と名づくる長者方へ辟支仏千人供養を求むるに、供養した。次に残りの千人が来るとまた、供養した。それから毎度供養するに五百人をして設備し接待せしめた。年歳を積んでいやになりて来りわれら五百人この乞食どものために苦労すると怨んだ。長者|恒《つね》に供養の時至るごとに一人をして辟支仏に往き請ぜしめた。この使い一|狗子《いぬ》を畜《か》い日々伴れて行った。一日使いが忘れて往かず、狗子独り往きて高声に吠え知らせたので諸大士来って食を受け、さて長者に向い最早雨降るべし、早速種植えせよと教えた。長者すなわち作人どもに命じ一切穀類を植えしむると数時間の後ことごとく瓢《ひょう》となった。長者怪しみ問うと諸大士心配するな出精して水をやれといった。水をやり続くると瓢が皆大きくなり盛える。剖《さ》いて見ると好《よ》き麦粒が満ちいる。長者大悦して倉に納《い》れると溢《あふ》れ出す。因って親族始め誰彼に分って合国一切恩沢を蒙った。五百人の者どもこれは諸大士のおかげと知って前日の悪言を謝し、来世に聖賢に遇って解脱を得んと願うた。その因縁で五百世中常に乞食となるがその改過と誓願に由って今我に遭うて羅漢となった。その時の長者は今の我で、日々使いに立った者は今の須達《しゅだつ》長者、狗子《いぬ》は吠えて諸大士を請じたから世々音声美わしく今は美音長者と生まれおり、悪言したのを改過した五百人は今この乞食上りの五百羅漢だと説いたとある。いやいやながらも接待係りを勤めたので、今生に北洲の自
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