出《い》づ、とあれば、同じ白でも鹿は悪く犬は善いと見える。しかるに巻十四に、播磨の賊|文石小麿《あやしのおまろ》馬の大きさの白犬に化けて官軍に抗したのを春日《かすが》の小野臣大樹《おののおみおおき》が斬りおわると、もとの小麿となったとあれば、白犬も吉兆と限らなんだのだ。後世に至っては、白犬は多く仏縁ありまた吉祥のものとされて居る。例せば道長公が道満法師に詛《のろ》われた時、白犬が吠えたり引いたりして公が厭物を埋めた地を踏むを止めた(『東斎随筆』鳥獣類)。関山派の長老の夢に久しく飼った白犬告げて、われ門前の者の子に生まれるから弟子にされよと、やがてそのごとく生まれ、貧女故捨てんとするを乞うて弟子としたが、長じて正直者ながら経を誦《よ》む事鈍かった(『因果物語』中)。和泉堺のある寺の白犬|勤行《ごんぎょう》の時堂の縁に来て平伏したが餅を咽《のど》に詰めて死し、夢に念仏の功力《くりき》で門番人の子に生まると告げ果して生まる。和尚夢を告げて出家さするに一を聞いて十を知ったが生来餅を嫌う、因って白犬と呼ばるるを忌み、十三の時強いて餅に向うたがたちまち座を外《はず》して見えずと(『諸国里人談』五)。『中阿含経』に白狗が前世にわが児たりし者の家に生まれ、先身の時|蔵《かく》し置いた財宝を掘り出す話あり。その他類似の談が仏典に多いから、伝えて日本にもそんな物語が輩出したのだ。ただし『今昔物語』十一や『弘法大師|行化記《ぎょうけき》』に、大師初めて南山に向った時、二黒犬を随えた猟人から唐で擲《な》げた三|鈷《こ》の行き先を教えられたとあり、この黒犬が大師を嚮導《きょうどう》したらしいから、本邦では黒犬を凶物とせなんだらしい。
 白犬と明記されぬが、犬が人に生まれた譚は仏経に多い。『賢愚因縁経』五に、仏が給孤独園《ぎっこどくおん》にあった時、園中五百の乞児あり、仏に出家を乞うて許され、すなわち無漏の羅漢となる、祇陀《ぎだ》太子、仏と衆僧を請じてこれら乞食上りの比丘を請せず、仏乞食上りの輩に向い太子汝らを請せず、汝ら鬱単越洲《うったんのっしゅう》に往き自然成熟の粳米《こうまい》を取って食えと。鬱単越(梵語ウッタラクルの音訳)は天下勝の義でまた勝処また勝生と訳し、アイテルの『梵漢語彙』には高上と訳しある。須弥《しゅみ》四洲のうち最も勝《すぐ》れて結構な処の意で、もと婆羅門教で諸神諸聖の住処をかく名づけたのが仏教に移ったらしい。

       3

『仏説|楼炭経《るたんきょう》』一に拠れば、須弥山《しゅみせん》の山の北方の天下鬱単越洲の人、通歯髪|紺青《こんじょう》色で身の丈八丈、面色同等長短また等し。通歯とはいわゆる一枚歯だろう。仏の三十二相の第二は螺髪《らほつ》右旋《うせん》、その色紺青(『方広大荘厳経』三)、帝釈《たいしゃく》第一の后|舎支《しゃし》、目清くして寛に、開いて媚《び》あり、髪青く長く黒く一々|旋《めぐ》る(『毘耶婆《びやば》問経』下)。インドでは中国で漆黒というに異なり、碧黒を最美としたのだ。
『万葉集』に美髪を讃《たた》えてミナのワタとあるを面妖に思い、予試みにミナという溝中の小螺を割って見るとその腸が美しい碧黒色だったので、昔の日本人もインド人と同好だったと知った。それからこの北洲の人はことごとく十善を行い悪行を教え作《な》さず。皆《みな》寿千歳で欠減する者なし。死後は※[#「りっしんべん+刀」、第3水準1−84−38]利天《とうりてん》に生まれ天上で終ってこの閻浮提《えんぶだい》洲の富貴人に生まれる。北洲の人大小便すれば自ずから地下に没し、その地清潔で糞臭の処なし。人死すれば好衣もて飾り、少しも哭《な》かずに四辻に置くと鬱遮鳥が片付けて洲外に持ち去る。浄き粳米ありて耕作入らず自然に生え一切の味を出す。それを釜に盛りて焔味球という珠を下に置けば、その光で飯が熟するを四方の人来り食うに尽きず。食いやんで面色潤沢で威神あり。盗賊悪人も我妻子という事もなし。男女もし婬慾を起すも相見て語らず。女が男に随って行き園中で二、三日から七日続けて相|娯《たの》しみ、事済まば随意に別れ去って相属せず。孕む事七、八日で子を生み、四辻に置けば往来する人々指先から乳を出して飲ませる。七日立つとその子自分の福力もてこの閻浮提洲の二十また二十五歳ばかりに成長する。その世界に塵《ちり》起らず。樹ありて交わり曲り上で合う、その上に男女各処を異にして住むなどいう事で、「鶏の項」に書いた仏徒が熱望する弥勒世界も、『観弥勒菩薩|下生《げしょう》経』に、時気和適、四時順節、人身百八の患《うれい》なく、貪慾瞋恚愚痴大ならず、人心均平にして皆同一意、相見て歓悦し善言相向い、言辞一類にして差別なき事、かの鬱単越のごとしとあって、活きた人間の住むに鬱単越洲ほどよい天下なし
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