十二支考
犬に関する伝説
南方熊楠

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麪包《パン》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)歩む事|叶《かな》わず。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「鼬」の「由」に代えて「奚」、第4水準2−94−69]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)びやう/\
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 南洋ニュウブリツン土人の説に、犬はもと直立して歩み甚だ速やかに走って多くの人を殺した。そこで生き残った人間が相談して、麪包《パン》果を極めて熱しその種子を犬の通路に撤《ま》いた。犬これを踏んで足を焼き、倒れて手をも焦し、それより立って歩む事|叶《かな》わず。その種子今も、犬の足の裏に球となって残りあるという(一九一〇年版、ジョージ・ブラウンの『メラネシアンスおよびポリネシアンス』二四四頁)。
 明治十五年、予高野登山の途次、花坂の茶屋某方で年十八歳という老犬を見た。今まで生きいたら五十八歳ちゅう高齢のはずだが、去年十一月、三十九年めでそこを過ぐると、かの茶屋の家も絶え果て、その犬の成り行きを語る者もなかった。『大英百科全書』十一版一六巻九七六頁に、犬は十六より十八歳まで生き得るが、三十四歳まで長命の例も記されたと見ゆ。一九一五年版、ガスターの『ルマニアの鳥獣譚』三三七頁に記す処に拠ると、ルマニア人は犬の定命《じょうみょう》を二十歳と見立てたらしい。その話にいわく、上帝世界を造った時、一切の生物を召集してその寿命と暮し方を定めた。一番に人を召し、汝人間は世界の王で、両足で直立し上天を眺めよ、予汝に貴き容状を賦与し、考慮と判断の力、それからもっとも深き考えを表出すべき言語の働きをも授くる。地上に活き動く物は空飛ぶ鳥から土を這《は》う虫までも汝に支配され、樹や土に生ずる諸果ことごとく汝の所用たるべく、汝の命は三十歳と宣《のたも》うた。人間これを承って懌《よろこ》ばず、いくら面白く威勢よく暮したってただ三十年では詰まらないやと呟《つぶや》いた。次に上帝|驢《ろ》を招き、汝は苦労せにゃならぬ、すなわち、常に重荷を負い運び、不断|笞《むち》うたれ叱られ、休息は些《ちと》の間で薊《あざみ》や荊《いばら》の粗食に安んずべく、寿命は五十歳と宣う。驢これを聞いて跪《ひざまず》いて愁い申したに、慈悲無辺の上帝よ、某《それがし》そんな辛い目をして五十年も長らえるはいかにも情けない。どうか特別の御情けで二十年だけ差し引いていただきたいと、その時強慾の人間差し出て、さほど好まぬ驢の二十年を某へ融通されたいと望みの通り二十年加えて、人の命を五十歳と修正された。
 次に上帝犬を呼び、汝は汝の主たる人間の家と財産を守り、ひたすらこれを失わぬよう努力せにゃならぬ、すなわち月の影を見ても必ず吠《ほ》えよ、骨折り賃として硬い骨を噛《かじ》り麁末《そまつ》な肉を啖《くら》うべく、寿命は四十歳と聞いて犬震い上り、そんなに骨折って骨ばかり食えとは難儀極まる。格外の御慈悲に寿命を二十歳で御勘弁をと言うもおわらぬに人間また進み出で、さほどに犬の気が進まぬ二十年を私に下されいと乞うたので、また二十年を加えて人命七十歳となった。最後に上帝、猴《さる》を呼び出し、汝は姿のみ人に似て実は人にあらず、馬鹿で小児めいた物たるべく、汝の背は曲り、毎《つね》に小児に嘲弄され痴人の笑い草たるべく、寿命は六十歳と宣うを聞いて猴弱り入り、これは根っからありがたからぬ、半分減じて三十歳に御改正をと聞いて人間またしゃしゃり出で、猴の三十歳を貰《もら》い受けて人寿百歳と定まった。
 かくて人間は万物の長として、最初上帝が賜わった三十年の間は何一つ苦労なしに面白く暮し遊ぶが、三十過ぎてより五十まではもと驢から譲り受けた年齢故、食少なく事煩わしく、未来の備えに蓄《たくわ》うる事にのみ苦労する。さて五十より七十まで、常に家にありてわずかに貯えた物を護るに戦々|兢々《きょうきょう》の断間《たえま》なく、些《いささか》の影をも怖れ人を見れば泥棒と心得吠え立つるも、もとこの二十年は犬から譲り受けたのだから当然の辛労である。さて人が七十以上生き延ぶる時は、その背《せ》傴《かが》み、その面変り、その心曇り、小児めきて児女に笑われ、痴人に嘲らる。これもと猴から受けた三十年だからだと。
 猫と犬の仲悪き訳を解いたエストニアの伝説はこうだ。以前すべての動物至って仲よく暮したが、その後《のち》犬が野で兎などを殺して食ったので、諸獣の訴えにより上帝犬を糺《ただ》すと、他に食うべき物がなければやむをえぬと答えた。もっともの次第とあ
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