ず号々と吠えるのだとて自らその真似をした。門外で伺う者聞きて口を掩《おお》うて笑わざるなし。白既に賭《かけ》に勝ったと知り、そんなら号々と吠えるものを尋ねて見ましょうと言って辞し出たとある。このついでに言う、犬の鳴くを本邦では鳴くとか吠えるとか言うばかりだが、支那には色々とその区別があるらしく、英語になると、バーク、イエルプ、ナール、ハウルなどと雑多な種別があって、それぞれ一語で犬が怪しんで吠えたとか、苦しんで吠えた、悲しんで吠えたと判る。どうもこんな事にかけては日本語はまずいようだ。また犬の鳴き声は時代に由って色々に聞えたと見えて、今日普通に犬の吠えるを、英語でバウワウ、仏語でブーブーまたツーツーなどいうが、十六世紀に仏国で出たベロアルド・ド・ヴェルヴィユの『上達方』などには、犬の声を今の日本と同じくワンとしおり、古エジプトではアウと呼んだ形迹《けいせき》あり(ハウトンの『古博物学概覧』三〇頁)。『狂言記拾遺』六、「犬山伏」に犬ビョウビョウと吠える。寛永十年に成った、松江重頼《まつえしげより》の『犬子集《えのこしゅう》』一に、「びやう/\と広庭にさけ犬桜」、巻十七に「びやう/\とせし与謝《よさ》の海つら」「竜燈の影におどろく犬の声」。徳川幕府の初期には、犬の鳴き声をビョウビョウと聞いたので、英語や仏語に近い。
 前項に引いた、英国の『ジョー・ミラー滑稽集』にいわく、行軍中の軍曹に犬が大口開いて飛びかかると、やにわに槍先を喉《のど》に突き通して殺した。犬の主大いに怒って、それほどの腕前で槍の尻で犬を打つ事が出来なんだかと詰《なじ》ると軍曹、犬が尻を向けて飛びかかって来たならそうしたはずだと言った。またある貴婦人、下女に魚を買わしめると毎度だまされるから、一日決心して自ら買いに出かけ、魚売る女に向って魚を半値にねぎった。魚屋呆れて盗んだ物でないからそう安くは売れませぬ、しかし貴女《あなた》の手のように色を白くする法を聞かせてくださったら魚を上げましょうというと、それは何でもない事犬の皮の手袋を嵌《は》めるのだと答う。魚屋大声を揚げて啌《うそ》つきの牝犬め、わが夫は十年来離さず犬の皮のパッチを穿《は》いているが、彼処《あそこ》は肉荳※[#「くさかんむり/寇」の「攴」に代えて「攵」、第3水準1−91−20]《にくずく》のように茶色だと詈《ののし》ったそうだ。これについて憶
前へ 次へ
全35ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング