伝うる七睡人の譚は、ギボンの『羅馬衰滅史』三十三章の末に手軽く面白く述べられているが、それにはここに述べた犬ラキムの名は一所見えるのみで、それについての譚全く出おらぬ。
 白井権八《しらいごんぱち》の人殺しは郷里で犬の喧嘩に事起ったと、講談などで聞く。西洋にも詩聖ダンテまで捲き添えを食わせたゲルフ党とギベリン党の内乱は全く犬の喧嘩に基づいたというが、噺《はなし》が長過ぎるからやめとする。東ローマ帝国が朝廷の車の競争から党争に久しく苦しみし例もあり。『醒睡笑』には、越前の朝倉家が相撲の争論から、骨肉相殺すに及んだ次第を述べある。

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 さきに出した『今昔物語』の瓢箪から麦米を出した譚は、もと仏徒が『最勝王経』と『法華経』の効力《くりき》を争うたから起ったものだ。聖武帝の天平十三年正月天下諸国に詔《みことのり》して七重塔一区ずつを造り、並びに『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』各十部を写させ、天皇また別に『金光明最勝王経』を写し毎塔各一部を置かしめ、また毎国金光明四天王護国寺に二十僧、法華滅罪の寺に十尼を置き、その僧尼毎月八日必ず『最勝王経』を転読して月半に至らしむとあって、その詔の発端には風雨順序し五穀豊穣なるべきため祷った由見える(『続日本紀』十四)。しかるに当時最勝|会《え》を宮中法事の第一とし、天平九年冬十月最勝会を大極殿に啓《ひら》く、その儀元日に同じというほどで(『元亨釈書』二の「釈道慈伝」)、二経の内『最勝王経』を特に朝家が尊んだので、『法華経』凝りの徒がこれに抗して瓢より米が出た話を作って、かの経が『最勝王経』に勝ると張強したのだ。
 犬の笑譚は、諸国にあるが今その二、三を挙げる。元和《げんな》九年|安楽庵策伝《あんらくあんさくでん》筆でわが邦落語の鼻祖といわるる『醒睡笑』巻一に「人|啖《く》い犬のある処へは何とも行かれぬと語るに、さる事あり虎という字を手の内に書いて見すれば啖わぬと教ゆる後《のち》犬を見虎という字を書き済まし手を拡げ見せけるが、何の詮もなくぼかと啖いたり、悲しく思いある僧に語りければ、推したり、その犬は一円文盲にあったものよ」と。『嬉遊笑覧』八に、この呪《じゅ》、もと漢土の法なり。『博物類纂』十に、悪犬に遇わば左手を以て寅《とら》より起し、一口気を吹き輪《めぐ》って戌《いぬ》に至ってこれを※[#「てへん+稻のつくり」、第
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