の慈心を起しても得脱の因となるというのだ。
これに異なって、回教は何事も上帝の思《おぼ》し召しのままと諦めるべく教える。したがって狗の食事についてもこんな話が『千一夜譚』にある。ある人借金に困って逐電し餓えて一城に入り、大勢町を行くに紛れ込んで王宮らしい家に到り進むと、大広間の上に小姓や宦官《かんがん》に取り囲まれた貴人あり、起って諸客に会釈した。かの貧人たちまち身のほどを顧み、恥じかつ恐れ入って人の見えぬような所に坐しいると、たちまち見る一人素絹と錦襴を被せ金の頸環、銀の鎖を付けた四疋の犬を牽き来り別室に維《つな》ぎ、去って金の皿四つに好肉を盛ったのを持ち来り、毎犬一皿を供えて出で行った。ここでバートンの註に、湿熱烈しい諸邦では、朝夕犬に衣を被《き》せぬと久しからずして痛風か腰痛で死ぬとある。貧人犬の美食を羨みいささか配分をと望んだが、吠えらるるを懼《おそ》れて躊躇する内、上帝彼を愍《あわれ》み一犬に教えたからその犬皿より退き彼を招いた。御辞儀なしに頂戴して満腹しやめかかると前脚で皿を彼に押し進めた。その金の皿を取ってその邸を出たを誰も知らず。他の城に往って売り飛ばし商品を買って故郷へ還り、それより借金を払い営業して全盛した。数年の後、その人われかの金皿の持ち主を訪いその値を償うべしとて、その代金および相応な礼物を持って彼処《かしこ》に趣き、かの邸を尋ぬればこれはしたり、旧時王謝堂前の燕、飛んで尋常百姓の家に入るで、金の皿で犬に食わせた豪家は跡方もなく、ただ烏が、崩れて列を成した古壁に鳴くばかりだった。こんな所に長居は無用と立ち帰ると、たちまち路傍に窶《やつ》れ果てた貧相な男を見付け、時移り運変ってこの邸の主公はどうなった、かの人の威容今|何処《いずこ》にありや、何でかくまで宏壮だった家が壁ばかり残すに及んだかと問うと、われこそここの主人だった者なれ、かつては金屋《きんおく》に住んで麗姫に囲まれた身も運傾けばこんな身になった。我を見るに付けても使徒が上帝この世界のある物を倒さずに他を起さずと説ける道理を明らめ省みよと言った。そこで昔かの邸で金皿を窃《ぬす》みそれより身代を持ち返した仔細を告げ、代金と礼物を納められよと勧めたが取り合わず。汝は実に狂人だ。犬がどうして人に金の皿を餽《おく》るものか、犬が人に遣った物の代金を我が受けらりょうか、いかに貧すれば鈍するとて
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