した。それより古臭い滑稽談を単に、ジョー・ミラーと通称する事、わが国の曾呂利咄《そろりばな》しのごとし。ロンドンのウェストミンスター・アッベイは、熊楠知人で詩名兼ねて濫行の聞え高かったジーン・ハーフッドその坊に棲み、毎度飲ませてもらいに往った。英国に光彩を添えた文武の偉人をこの寺に葬り、その像を立てた。その間を夕方歩むと、真に欽仰畏敬《きんぎょういけい》の念を生じた。件《くだん》の『必携』十頁に、ある卑人その家名に誇ってわが父の像|彼処《かしこ》に立てられたというので念入れて尋ぬると、タイン侯乗車の像が立てられ、わが父は馬車の御者だったから従ってその像もあるのだと答えたので、聞いた者が呆《あき》れたと見ゆ。あまたの犬どもが主人の碑にその像を刻まるるもまずはこの格で、ことごとく格別の忠勤を尽したでもなく、若い時、桐野利秋《きりのとしあき》に囲われた妾とか、乃木将軍にツリ銭を貰《もろ》うた草鞋《わらじ》売りとか、喋々すると同様、卑劣めいた咄だ。
かの薬王が烏竜てふ黒犬を従え歩いたに付けて言うは、欧州では、古く魔は黒犬や老猫形を現ずると信じ、ウィエルスは魔が人を犯す時、黒犬の腸《はらわた》と血をその室の壁に塗ればたちまち去ってまた来らずと言った。これは、血蝮に咬まれた者蝮の肉を創《きず》に付くれば速やかに治すというごとく、毒を以て毒を退治るのだ。このウィエルスが師事したドイツのアグリッパは、十六世紀に名高い医者兼哲学者で著述も多かったが、所説が時世に違い容れられず、一汎《いっぱん》に魔法家と擯斥《ひんせき》されて陋巷に窮死した。常に一黒犬を従えたがこれが魔の化けたので、この人死に臨み呪法で禁じ置いた黒犬の頸環を解き、去れ、汝、わが一生を過《あやま》たしめたと言うと、犬脱走して河に入りて再び現われなんだとも、魔が、汝、死んでも必ず蘇らせてやると誓うたので自殺すると、魔、嘲《あざわら》って取り合わなんだので死に切れたともいう。ヴェニス人プラガジニは有名な方士で、魔の力を借りて黄金を作り出すと誇り、一五九五年バイエルンで刑せらる。同時にその常に伴うた二黒犬は魔が化けたのだとて、犬を人同様裁判の上衆民の見る所で弩《ど》を以て射殺した(コラン・ド・プランシー『妖怪事彙』)。
東洋には『淵鑑類函』四三六に、康定中侍禁李貴西辺の塞主たり、その妻賊のために※[#「てへん+虜」の「田」
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