も考う。『松屋筆記』五に浅草観音に鶏を納むるに日を経れば雌鶏必ず雄に変ず、仏力にてかくのごとしとあるが、霊境で交合したり雛を生み、ピーピー走り廻られては迷惑故、坊主が私《ひそ》かに取り替えたであろう。それについて思い出すは李卓吾の『開巻一笑』続二に、陳全遊は金陵の妓なり、詞章に高く多く題詠あり云々、一日隣奴何瓊仙なる者と同飲す、たまたま雄雌鶏相交わるを見、仙請うてこれを詠ぜしむ、その詞に曰く〈汝霊禽にして走獣にあらず、風流の事誰かあらざらん、ただ好く背地に情を偸む、なんぞ当場の呈醜を許さん、かくのごときは律に罪を問うを休《や》めよ、まさにみな笞杖徒流すべし、更に一等を加えて強論せば、殺し来りて我がために下酒とせん〉とは、さすがに詩の本場だけあってよく詠んだ。『五雑俎』に、景物悲歓何の常かこれあらん、ただ人のこれに処する如何というのみ、詩に曰く風雨|晦《くら》し、鶏鳴いてやまずと、もとこれ極めて凄涼《せいりょう》の物事なるを、一たび点破を経れば、すなわち佳境と作《な》ると。さればゲーテはいかな詰まらぬ事をも十分に文想を振うて至極面白く詠んだとショッペンハウエルは讃めたと記憶する。
『常山
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