《きのとい》か庚子《かのえね》で辰の歳じゃない。『慶長見聞集』の発端に見えしは、今三浦の山里に年よりへたる知人あり、当年の春江戸見物とて来りぬ。愚老に逢いて語りけるは、さてさて目出たき御代かな、我ごとき土民までも安楽に栄え美々しき事どもを見きく事のありがたさよ、今が弥勒の世なるべしという。実《げ》に実に土民のいい出せる詞《ことば》なれども、全く私言にあるべからずと記せるなど考え出すと、昔は本邦でも弥勒の平等無差別世界を冀《こいねが》う事深く、下層民にまで浸潤し、結構な豊年を祝い、もしくは難渋な荒歳を厭うことは、一度ならず私《わたくし》に弥勒と年号を建てたらしく、例の足利氏の代に多く起った徳政一揆などの徒が、支那朝鮮同様弥勒仏の名を仮って乱を作《な》せし事もあったのだろう。二月十六日の『大毎』紙に、綾部《あやべ》の大本《おおもと》に五六七殿というがあるそうで、五六七をミロクと訓《よ》ませあった。かつて故老より亀の甲は必ず十三片より成り、九と四と合せば十三故、鼈甲《べっこう》で作る櫛《くし》を九四といい始めたと承ったが、江戸で唐櫛屋《とうぐしや》を二十三屋と呼んだは十九四《とくし》の三数を和すれば二十三となるからという(『一話一言』八)。この格で五と六と七を合すと十八すなわち三と六の乗積ゆえ、弥勒の無差別世界を暗示せんため、弥勒の代りに十八、そのまた代りに五六七と書いたものでなかろうか。
さて前に書いた通り、鶏足を号とした寺は東北に多く、また、奥羽地方に荷渡《にわた》り権現《ごんげん》多く、また鶏足《にわたり》権現、鶏足明神と漢字を宛て、また、鶏鳥権現と書きある由(『郷土研究』二巻八号、尾芝氏説)、しかるに『真本細々要記』貞治《じょうじ》五年七月の条に、伏見鶏足寺見ゆれば畿内にもあったのだ。蔵王権現は弥勒の化身と『義楚六帖』にいえば、これを尊拝する山伏輩がもっとも平等世界や鶏足崇拝を説き廻っただろう。
河内の道明寺中興住持の尼、覚寿《かくじゅ》は菅丞相《かんしょうじょう》の伯母で、菅神左遷の時、当寺に行き終夜別れを惜しむ。暁に向い鶏啼きて喧《かまびす》し。菅神そこで吟じたもう和歌に「鳴けばこそ別れを急げ鳥のねの、聞えぬ里の暁もがな」(『和漢三才図会』七五)、これよりこの土師《はじ》の里に鶏鳴かず、羽敲《はばた》きもせぬ由、『菅原伝授鑑《すがわらでんじゅかがみ》』に出で、天神様が嫌うとて今に鶏を飼わぬらしい(高木氏『日本伝説集』二一九頁)。
一五三五年頃スアヴェニウスは、スコットランドで周り八マイルばかりまるで鶏鳴かぬ地を見た由(ハズリット、一巻一三五頁)。『広益俗説弁』三八に、俗説にいわく、菅丞相御歌に「鳥もなく鐘も聞えぬ里もがな、ふたりぬる夜の隠れがにせむ」。これは太田道灌の『慕景集』鳥に寄する恋「世の中に鳥も聞えぬ里もがな、二人ぬる夜の隠れがにせむ」とあるを、菅原の詠と誤り伝えたのだとあって「鳴けばこそ」の歌は『天満宮故実』等に出ると言ったが、『天満宮故実』という物、余見た事なく、確かな書籍目録にも見えぬ。想うに道灌の「世の中に」の詠を真似《まね》て後人が「鳴けばこそ」の一首を偽作したのであろう。元禄時代の編てふ『当世小唄揃』には「鳥のねも鐘も聞えぬ里もがな、二人ぬる夜の隠れがにせん」とある。「人を助くる身を持ちながら暁の鐘つく」糞坊主と斉《ひと》しく、鶏の無情を恨んだ歌はウンザリするほどあって、就中《なかんずく》著名なは、『伊勢物語』に、京の男陸奥の田舎女に恋われ、さすがに哀れとや思いけん、往きて寝て、夜深く出でにければ、女「夜も明けば狐《きつ》にはめけん鶏《くだかけ》の、まだきに鳴きてせなをやりつる」。後世この心を「人の恋路を邪魔する鳥は犬に食われて死ぬがよい」とドド繰《く》ったものじゃ。『和泉式部家集』五、鶏の声にはかられて急ぎ出でてにくかりつれば殺しつとて羽根に文を附けて賜われば「いかゞとは我こそ思へ朝な/\、なほ聞せつる鳥を殺せば」、これは実際殺したのだ。劉宋の朝の読曲歌にも〈打ち殺す長鳴き鶏、弾じ去る烏臼《うきゅう》の鳥〉。『遊仙窟』には〈憎むべし病鵲《びょうじゃく》夜半人を驚かす、薄媚《はくび》の狂鶏三更暁を唱う〉。呉の陸※[#「王+饑のつくり」、第3水準1−88−28]《りくき》の『毛詩草木虫魚疏』下に、〈鶴常に夜半に鳴く〉。『淮南子《えなんじ》』またいう、〈鶏はまさに旦《あ》けんとするを知り、鶴は夜半を知る、その鳴|高亮《こうりょう》、八、九里に聞ゆ、雌は声やや下る、今呉人|園囿《えんゆう》中および士大夫家の皆これを養う、鶏鳴く時また鳴く〉と見ゆれば、鶏と等しく鶴も時を報ずるにや。それから例の「待つ宵に更《ふけ》行く鐘の声聞けば、飽かぬ別れの鳥は物かは」に因《ちな》んで、『新増犬筑波』に、「今朝のお汁の
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