久しく頭を俯《ふ》した後|虚空《こくう》に昇り、自分で火を出し身を焚《や》いて遺骸地に堕ちたのを、王が収めてこの塔を立てたと見ゆ。
誰も知る通り婆羅門教に今の時代を悪劫《あくごう》とするに反し、仏教には賢劫《けんごう》と称す。この賢劫に四仏既に出た。人寿五万歳の時|拘留孫仏《くるそんぶつ》、人寿四万歳の時|倶那含牟尼仏《くなごんむにぶつ》、人寿二万歳の時迦葉波仏、人寿百歳の時釈迦牟尼仏が出て今の仏法を説いた。それより段々減じて人寿十歳、身の長《たけ》一尺、女人生まれて五月にして嫁す。人気至って悪く悪行する者は人に敬せられ、草木瓦石を執るも皆刀剣とあり、横死無数なり。その時山に蔵《かく》るる者ただ一万人残る。他の人種相殺し尽した後《のち》出で来り相見て慈心を起し共に善法を行う。その功徳《くどく》で百年ごとに一年ずつ命が増す、人寿八万四千歳に上りそれより八万歳を減ずる時賢劫の第五仏|弥勒仏《みろくぶつ》が出る。減じたというものの、人の命が八万年でそれより一年も若くて死ぬ者なく、女人は五百歳で方《まさ》に嫁す。日に妙楽を受け、禅定《ぜんじょう》に遊ぶ事三禅の天人のごとく常に慈心ありて恭敬和順し一切殺生せず。ただ飲食便利衰老の煩を免るる能わず。香美の稲ありて一度|種《う》うれば七度収穫され、百味具足し口に入ればたちまち消化す。大小便の時地裂け赤蓮花を生じて穢気を蔽《おお》うとあるから、そんな結構な時代の人もやはり臭い糞は垂れるのだ。人民老ゆれば自然に樹下に往き、念仏して静かに往生し、大梵天や諸仏の前に生まる。その時の聖王に子千人と四大宝蔵あって中に珍宝満つ。衆人これを見て貪著《とんじゃく》せず、釈迦仏の時昔の衆生この宝のために相《あい》偸劫《とうごう》して罪を造ったと各|呆《あき》れる。その時弥勒仏生まれて成道《じょうどう》し、件《くだん》の聖王その悴《せがれ》九百九十九人と弟子となって出家し一子のみ出家せずに王位を嗣《つ》ぐ。弥勒世尊、翅頭末《しとうまつ》城外《じょうがい》の金剛荘厳道場《こんごうしょうごんどうじょう》竜華菩提樹下《りゅうげぼだいじゅげ》で成道する。この樹は枝が宝竜のごとく百の宝華《ほうげ》を吐く故この名あり。初めに金剛座上で説法し九十六億人阿羅漢を得、二会と三会に城外の華林園で説法し、九十四億と九十二億の人が阿羅漢となる。これを竜華の三会といって馬琴の『八犬伝』の文句にも出れば、弥陀の念仏流行して西方浄土往きの切符大投げ売りとなるまでは、キリスト教の多くの聖人大士が極楽へ直通りせず最終裁判の日を待ち合すごとく、弘法大師その他の名僧信徒、殊《こと》に畏《おそ》れ多いが至尊で落飾された方々もこの弥勒の出世をあるいは入定したり、あるいは天上霊域で待ち合され居るはずとさる高僧から承った。とにかく昔の仏徒が弥勒の出世を竢《ま》つ事、古いキリスト教徒がミルレニウムを竢ったごとく、したがって、中国や朝鮮で弥勒と僭号《せんごう》して乱を作《な》した者もありと記憶し、本邦でも弥勒十年辰の年など万歳《まんざい》が唱え祝い、余幼時「大和国がら女の呼《よば》いおとこ弥勒の世じゃわいな」てふ俚謡を聞いた。およそ仏教の諸経に、弥勒の世界と鬱単越洲《うつたんのっしゅう》を記せる、その人間全く無差別で平等で、これが西洋で説かれていたら遠くの昔に弥勒社会主義とかようのものが大いに起ったはずだが、東洋には上述の僅々小人がこれを冒して、小暴動を起したくらいに止まり、わが邦では古く帝皇以下ことごとくその経文を篤信して静かにその出世を竢たれたので、どんな結構な文も読む者の心得一つで危険思想も生ずれば、どんな異常な考えを述べた者も穏やかにこれを味わえば人心を和らげ文化を進めるに大益ありと判る。ただし『仏説観弥勒菩薩|下生経《げしょうきょう》』に、この閻浮提洲《えんぶだいしゅう》、弥勒の世となって、危険な物や穢《きたな》い物ことごとく消え失せ、人心均平、言辞一類となり、地は自然に香米を生じ、衣食一切の患苦なしとあるに、無数の宝を蔵《おさ》めた四大倉庫自然に現出すると、守蔵人、王に白《もう》す。ただ願わくば大王この宝蔵の物を以てことごとく貧窮に施せと、爾時《そのとき》大王この宝を得《え》已《おわ》ってまた省録せず、ついに財物の想なしと言えるは辻褄が合わず、どんな暮しやすい世になっても、否暮しやすければやすいほど貧乏人は絶えぬ物と見える。さて、弥勒世尊無量の人と耆闍崛山《ぎしゃくつせん》頂に登り、手ずから山峯を擘《つんざ》く。その時梵王天の香油を以て大迦葉尊者の身に灌《そそ》ぎ、大※[#「特のへん+廴+聿」、第3水準1−87−71]稚《だいかんち》を鳴らし大法螺《おおぼら》を吹く音を聞いて、大迦葉すなわち滅尽定《めつじんじょう》より覚《さ》め、衣服を斉整して長跪
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