で、天神様が嫌うとて今に鶏を飼わぬらしい(高木氏『日本伝説集』二一九頁)。
 一五三五年頃スアヴェニウスは、スコットランドで周り八マイルばかりまるで鶏鳴かぬ地を見た由(ハズリット、一巻一三五頁)。『広益俗説弁』三八に、俗説にいわく、菅丞相御歌に「鳥もなく鐘も聞えぬ里もがな、ふたりぬる夜の隠れがにせむ」。これは太田道灌の『慕景集』鳥に寄する恋「世の中に鳥も聞えぬ里もがな、二人ぬる夜の隠れがにせむ」とあるを、菅原の詠と誤り伝えたのだとあって「鳴けばこそ」の歌は『天満宮故実』等に出ると言ったが、『天満宮故実』という物、余見た事なく、確かな書籍目録にも見えぬ。想うに道灌の「世の中に」の詠を真似《まね》て後人が「鳴けばこそ」の一首を偽作したのであろう。元禄時代の編てふ『当世小唄揃』には「鳥のねも鐘も聞えぬ里もがな、二人ぬる夜の隠れがにせん」とある。「人を助くる身を持ちながら暁の鐘つく」糞坊主と斉《ひと》しく、鶏の無情を恨んだ歌はウンザリするほどあって、就中《なかんずく》著名なは、『伊勢物語』に、京の男陸奥の田舎女に恋われ、さすがに哀れとや思いけん、往きて寝て、夜深く出でにければ、女「夜も明けば狐《きつ》にはめけん鶏《くだかけ》の、まだきに鳴きてせなをやりつる」。後世この心を「人の恋路を邪魔する鳥は犬に食われて死ぬがよい」とドド繰《く》ったものじゃ。『和泉式部家集』五、鶏の声にはかられて急ぎ出でてにくかりつれば殺しつとて羽根に文を附けて賜われば「いかゞとは我こそ思へ朝な/\、なほ聞せつる鳥を殺せば」、これは実際殺したのだ。劉宋の朝の読曲歌にも〈打ち殺す長鳴き鶏、弾じ去る烏臼《うきゅう》の鳥〉。『遊仙窟』には〈憎むべし病鵲《びょうじゃく》夜半人を驚かす、薄媚《はくび》の狂鶏三更暁を唱う〉。呉の陸※[#「王+饑のつくり」、第3水準1−88−28]《りくき》の『毛詩草木虫魚疏』下に、〈鶴常に夜半に鳴く〉。『淮南子《えなんじ》』またいう、〈鶏はまさに旦《あ》けんとするを知り、鶴は夜半を知る、その鳴|高亮《こうりょう》、八、九里に聞ゆ、雌は声やや下る、今呉人|園囿《えんゆう》中および士大夫家の皆これを養う、鶏鳴く時また鳴く〉と見ゆれば、鶏と等しく鶴も時を報ずるにや。それから例の「待つ宵に更《ふけ》行く鐘の声聞けば、飽かぬ別れの鳥は物かは」に因《ちな》んで、『新増犬筑波』に、「今朝のお汁の
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