て膳を荒した。インドの風として鶏を不吉の物とし、少しでも鶏に触れられた食物を不浄として太《いた》く忌むのだ。しかるに王の末子ラトナファーのみ少しも騒がず、あり合せた飯を執って投げるを、拾うて鶏が少しもその膳を穢《けが》さず、因って末子が一番智慧ありと知れた。王|※[#「歹+且」、第3水準1−86−38]《そ》して後、諸兄これを遠ざけ外遊せしめたが、ガウルに趨《おもむ》き回教徒の兵を仮り来て兵を起し、諸兄を殺し(一二七九年頃)、マンクの尊号を得、世襲子孫に伝えたと。
孔雀は鶏の近類故このついでに孔雀の話を一つ申そう。一八八三年サイゴンで出たエーモニエーの『柬埔※[#「寨」の「木」に代えて「禾」、176−10]《カンボジア》人風俗信念記』に次の話がある。ある若者、その師より戒められたは、妻を娶《めと》るは若い娘か後家に限り、年取った娘や、嫁入り戻りの女を娶るなかれと。その若者仔細あって師の言に背《そむ》き、この四種の女を一度に娶った後、師の言の中《あた》れるや否やを験するため、謀って王の最愛の孔雀を盗み、諸妻に示した後|匿《かく》し置き、さて、鶏雛を殺してかの孔雀を殺したと詐《いつわ》り、諸妻に食わせた。若い娘と後家はこの事を秘したが、年取った娘と、嫁入り戻りの妻は大秘密と印した状を各母に送ってこの事を告げたので、明日たちまち市中に知れ、ついに王宮に聞えた。王怒ってその若者、および四妻を捕え刑せんとした。若者すなわちその謀を王に白《もう》し、匿し置いた孔雀を還したので、王感じ入って不貞の両妻を誅した。爾来《じらい》夫の隠し事を密告し、また夫を殺す不貞の婦女をスレイ・カンゴク・メアス(金の孔雀女)と呼ぶと。若い娘と後家が貞なる訳は後に解こう。
ウィリヤム・ホーンの『ゼ・イヤー・ブック』の三月三十一日の条にいわく、一八〇九年三月三十日、大地|震《ふる》うてビークン丘とビーチェン崖と打ち合い、英国バス市丸潰れとなる由を、天使が一老婆に告げたという評判で、市民不安の念に駆られ、外来の客陸続ここを引き揚げたが、その事起るべきに定まった当日、正午になっても一向起らず、大騒ぎせし輩、今更軽々しく妖言を信じたを羞《は》じ入った。この噂の起りはこうだ。ビークン丘とビーチェン崖の近所に住める二人の有名な養鶏家あって、酒店で出会い、手飼いの鶏の強き自慢を争うた後、当日がグード・フライデイ
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