。その故を尋ぬるに、この畑村に、昔炭焼き藤太という者居住す。その家の辺より沙金を拾い得たり。因ってついには富を重ね、故に金を以て鶏形一双を作り、山神を祭り、炭とともに土中に埋む、因ってそこを鶏坂という。これ貞享《じょうきょう》三年印本『藤太行状』というに載せたりと。また文化十五年四月そこの農夫、沙金を拾わんため山を穿《うが》ちしに、岸の崩れより一双の金鶏を獲たり。重さ百銭目にして、山神の二字を彫り付けあり。この藤太は近衛院の御時の人にて、金商橘次、橘内橘王が父なりと。今もその夫婦の石塔その地にあり云々。『東鑑』〈文治二年八月十六日午の尅《こく》、西行上人退出す、しきりに抑留すといえども、敢《あ》えてこれにかかわらず、二品《にほん》(頼朝)銀を以て猫を作り贈物に充《あ》てらる、上人たちまちこれを拝領し、門外において放遊せる嬰児に与う云々〉。因って思うにこの頃の人はかくのごとくに金銀を以て形造の物ありしかと。元魏の朝に、南天竺|優禅尼《うぜんに》国の王子月婆首那が訳出した『僧伽※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]《そうがた》経』三に、人あり、樹を種《う》うるに即日芽を生じ、一日にして一由旬の長さに及び、花さき、実る。王自ら種え試みるに、芽も花も生ぜず、大いに怒って諸臣をしてかの人|種《う》えたる樹を斫《き》らしむるに、一樹を断てば十二樹を生じ、十二樹を切れば二十四樹を生じ、茎葉花果皆七宝なり。爾時《そのとき》二十四樹変じて、二十四億の鶏鳥、金の嘴、七宝の羽翼なるを生ずという。これもインドで古く金宝もて鶏の像を造る習俗があったらしい。『大清一統志』三〇五、雲南《うんなん》に、金馬、碧鶏二山あり。『漢書』に宣帝神爵と改元した時、あるいは言う、益州に、金馬、碧鶏の神あり。※[#「酉+焦」、第4水準2−90−41]祭《しょうさい》して致すべしと。ここにおいて諫大夫|王褒《おうほう》を遣わし、節を持ってこれを求めしむと。註に曰く、金形馬に似、碧形鶏に似ると。これも金で馬、碧すなわち紺青《こんじょう》で鶏を作り、神と崇《あが》めいたのであろう。本邦にも古く太陽崇拝に聯絡して黄金で鶏を作り祀りしを、後には宝として蔵する風があったらしい。十一年前、余、紀州日高郡上山路村で聞いたは、近村竜神村大字竜神は、古来温泉で著名だが、上に述べた阿波の濁りが淵同様の伝説あり。所の者は秘して語ら
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