をだまそうとは怪《け》しからぬと罵って、子を投げそうだから、城主更に臣下して自身を健《したた》か打たしめると、盲人また今度は一番どこが疼《いた》いかと問うた。心臓と答うると、いよいよ急ぎ投げそうに見える。ここにおいて父やむをえず、板額《はんがく》は門破り、荒木又右衛門は関所を破る、常磐御前とここの城主はわが子のために、大事な操と陰嚢《ふんぐり》破ると、大津絵《おおつえ》どころか痛い目をしてわれとわが手で両丸くり抜いた。さて、今度はどこが一番疼むかと問うに、対《こた》えて歯がひどく疼むというと、コイツは旨い。本当だ「玉抜いてこそ歯もうずくなれ」。汝は今後|世嗣《せいし》を生む事ならず一生楽しみを享《う》け得ぬから、余は満足して死すべしと言いおわらざるに、盲人、城主の子を抱いて塔頭より飛び降り、形も分らぬまで砕け潰れ終った。されば悋気《りんき》深い女房に折檻《せっかん》されたあげくの果てに、去勢を要求された場合には、委細承知は仕《つかまつ》れど、鰻やスッポンと事異なり、婦人方の見るべき料理でない。あちらを向いていなさいと彼方を向かせ、卒然変な音を立て高く号《さけ》び、どこが一番疼いと聞かれたら、歯が最も疼むと答うるに限る。孟軻《もうか》の語に、志士は溝壑《こうがく》にあるを忘れず、勇士はその元《こうべ》を喪《うしな》うを忘れずと。余は昨今のごとき騒々しい世にありて、キンダマの保全法くらいは是非|嗜《たしな》み置かねばならぬと存ずる。
 ベロアル・ド・ヴェルヴィユの『上達方』に、鶏卵の笑談あまたある。その一、二を挙げんに、マーゴーてふ下女、座敷の真中に坐せる主婦に鶏卵一つ進《まい》らする途中、客人を見て長揖《ちょうゆう》する刹那、屁をひりたくなり、力《つと》めて尻をすぼめる余勢に、拳《こぶし》を握り過ぎて卵を潰し、大いに愕《おどろ》いて手を緩《ゆる》めると、同時に尻大いに開いて五十サンチの巨砲を轟《とどろ》かしたが、さすがのしたたかもので、客の怪しみ問うに対してツイ豆をたべたものですからといったとある。その頃仏国でも豆は屁を催すと称えたのだ。全体この書は文句|麁野《そや》、下筆また流暢ならず、とても及ぶべくもないが、古今名人大一座で話し合う所を筆記した体に造った点が、馬琴の『昔語質屋庫』にやや似て居る。たとえば医聖ガリアンが、ブロアの一少婦が子を産み、その子女なりと聞いて
前へ 次へ
全75ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング