する由。英国ではこの尊者の忌日、七月二十五日に牡蠣《かき》を食えば年中金乏しからずとて、価を吝《おし》まずこの日売り初めの牡蠣を食い、牡蠣料理店大いに忙し。店に捨てた多くの空殻《あきがら》を集めて小児が積み上げ、その上に蝋燭を点《とも》し、行人に一銭を乞いてその料とす。定めて杓子貝に近いもの故だろう(チャンバースの『ブック・オヴ・デイス』二巻一二二頁。ハズリット『諸信および俚伝』二巻三四四頁)。
鶏に係わる因果譚や報応譚は極めて多い。今ただ二、三を掲ぐ。『新著聞集』酬恩篇に、相馬家中の富田作兵衛二階に仮寝した夢に、美女来って只今我殺さるるを助けたまわば、末々御守りとも成らんという。起きて二階を下り見れば、傍輩ども牝鶏を殺す所なり。只今かかる夢を見しこの鳥、我にと、強いて乞い受け、日比谷の神明に放つ。殿の母公聞きて優しき事と、作兵衛に樽肴を賜わる。その後《のち》別の奉公の品もなきに、二百五十石新恩を拝領せしは、寛文中の事とあり。またその殃禍篇《おうかへん》に、美濃の御嶽《おんたけ》村の土屋某、日来《ひごろ》好んで鶏卵を食いしが、いつしか頭ことごとく禿《は》げて、後《のち》鶏の産毛《うぶげ》一面に生じたと載す。支那でも周の武帝鶏卵を好き食い、抜彪《ばつひょう》なる者、御食を進め寵せらる。隋朝起ってなお文帝に事《つか》え食を進む。この人死後三日に蘇《よみがえ》り、文帝に申せしは、死して冥府《めいふ》に至ると、冥府の王汝武帝に進めし白団《はくだん》いくばくぞと問う。彪、何の事か解せず。傍の人、白団とは鶏卵じゃと教えたので、武帝が食うた卵の数は知れぬと答う。しからば帝食うただけの卵を出すべしとて、牛頭《ごず》人身《じんしん》の獄卒して、鉄床《かなとこ》上に臥《ふ》したる帝を鉄梁もて圧《おさ》えしむるに、両肩裂けて十余石ばかりの卵こぼれ出《い》づ。帝、彪に向い、汝|娑婆《しゃば》に還って大隋天子に告げ、我がこの苦を免れしめよと言うたと。文帝、すなわち天下に勅し、毎人一銭を出して武帝の追福を修めたそうだ(『法苑珠林』九四)。
こんな詰まらぬ法螺談《ほらばなし》も、盗跖《とうせき》は飴《あめ》を以て鑰《かぎ》を開くの例で、随分有益な参考になるというのは、昨今中央政府の遣り方の無鉄砲に倣い、府県|争《きそ》うて無用の事業を起し、無用の官吏を置くに随い、遊興税から庭園税、それから何
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