言うた。シシリーではかかる牝鶏は売りも餽《おく》りもせず、主婦が食うべしという由。熊楠案ずるにスエーデンで同心結(コンヌビァル・ノット)を結ぶ内、新婦が婿より前に進みまたわざとらしからぬように手巾を落すと婿が拾ってくれる。かくすると一生嬶旦那で暮し得と信ず(ロイドの『瑞典小農生活』八六頁)。それと同流の心得で、晨する牝鶏を食えば主婦が亭主を尻に敷き続け得と信じたのだ。本邦にも牝鶏の晨するを不吉とした。『碧山日録』に、長禄三年六月二十三日|癸卯《みずのとう》、天下飛語あり、諸州の兵|窃《ひそ》かに城中に屯《たむろ》す、けだし諸公|預《あらかじ》め禍《わざわい》の及ぶを懼るるなり。あるいは曰く、北野天満神の廟の牝鶏晨を報ずるなり。神巫《みこ》これを朝《ちょう》に告ぐというと見ゆ。この時女謁盛んで将軍家ばかりか大諸侯の家また女より大事起らんとしたからこんな評判も立ったのだ。大正八年三月の『飛騨史壇』、故三嶋正英の『伊豆七島風土細覧』に新島《にいじま》の乱塔場に新しく鶏を放ち飼った土俗を載せある。これは卵を食用にするためのよう読まるるが、あるいはもと右述ペルシア同前悪魔|除《よ》けにしたのかとも考う。『松屋筆記』五に浅草観音に鶏を納むるに日を経れば雌鶏必ず雄に変ず、仏力にてかくのごとしとあるが、霊境で交合したり雛を生み、ピーピー走り廻られては迷惑故、坊主が私《ひそ》かに取り替えたであろう。それについて思い出すは李卓吾の『開巻一笑』続二に、陳全遊は金陵の妓なり、詞章に高く多く題詠あり云々、一日隣奴何瓊仙なる者と同飲す、たまたま雄雌鶏相交わるを見、仙請うてこれを詠ぜしむ、その詞に曰く〈汝霊禽にして走獣にあらず、風流の事誰かあらざらん、ただ好く背地に情を偸む、なんぞ当場の呈醜を許さん、かくのごときは律に罪を問うを休《や》めよ、まさにみな笞杖徒流すべし、更に一等を加えて強論せば、殺し来りて我がために下酒とせん〉とは、さすがに詩の本場だけあってよく詠んだ。『五雑俎』に、景物悲歓何の常かこれあらん、ただ人のこれに処する如何というのみ、詩に曰く風雨|晦《くら》し、鶏鳴いてやまずと、もとこれ極めて凄涼《せいりょう》の物事なるを、一たび点破を経れば、すなわち佳境と作《な》ると。さればゲーテはいかな詰まらぬ事をも十分に文想を振うて至極面白く詠んだとショッペンハウエルは讃めたと記憶する。
『常山
前へ
次へ
全75ページ中73ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング