ゅう所の牧師アーチブルド・デンニストンで、一六五五年その職を免ぜられ、王政恢復(一六六〇年)の後復職した。免職前に講演第一条を終った続きの第二条を復職後述ぶる発端に、時節は変ったが聖教はいつも変らぬと口を切ったそうだ。ところがこの牧師も瞠若《どうじゃく》と尻餅を搗《つ》かにゃならぬ珍報が一八六二年の諸新聞紙に出た。紀元七十九年ヴェスヴィウス山大噴火のみぎり、ポンペイ市全滅に際しその大戯場で演劇を催しいた実跡あるに乗じ、今度ランギニてふ山師がポンペイの廃趾に戯場を建て、初演の広告に当戯場は千八百年目にいよいよまた「行儀の娘」の外題で開演するに付き、前の座主マルクス・キンツス・マルチウスの経営中に劣らず出精《しゅっせい》致しますれば、貴顕紳士は相替らず御贔屓《ごひいき》御入来を願うと張り出した。熊楠いう、東洋にはずっと豪いのがあって、玄奘三蔵の『大唐西域記』巻十二|烏※[#「金+殺」、140−14]国《うせつこく》の条に、その都の西二百余里の大山頂に卒都婆《そとば》あり、土俗曰く、数百年前この山の崖崩れた中に比丘《びく》瞑目《めいもく》して坐し、躯量偉大、形容|枯槁《ここう》し、鬚髪《しゅはつ》下垂して肩に被《かか》り面に蒙《かむ》る。王も都人も見物に出懸け香花《こうげ》を供う、この巨人は誰だろうと王が言うと、一僧これは袈裟《けさ》を掛け居るから滅心定《めっしんじょう》に入った阿羅漢だろう、この定に入るに期限あり、※[#「特のへん+廴+聿」、第3水準1−87−71]稚《かんち》(わが邦の寺で敲《たた》き鳴らす雲板、チョウハンの類)の音を聞けば起るとも、日光に触れば起るともいう、さもない間は動かず、定《じょう》の力で身体壊れず、かく久しく断食した人が定を出たら酥油《そゆ》を注いで全身を潤《うるお》し、さて※[#「特のへん+廴+聿」、第3水準1−87−71]稚を鳴らして寤《さ》ますがよいと答えた。その通りして音を立てる事わずかにして羅漢眼を開き、久しく見廻して汝ら何人で形容卑劣なくせに尊い袈裟を被るぞと問うた。かの僧我は比丘だと答うると、しからば我師|迦葉波《かしょうは》如来は今|何処《いずこ》にありやと問う。かの如来は大涅槃《だいねはん》に入りて既に久しと聞いて目を閉じ残念な顔付しまた釈迦如来は世に出たかと問うから、昔生まれて世を導きすでに寂滅《じゃくめつ》されたと答う。
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