丸傍点]くき仕方を引き替えて一[#「一」に白丸傍点]国一命|免《ゆる》すものなり」と。かく書かせて元の所へ置かせられた(改定史籍集覧本『丹州三家物語』七三頁)、三国|鼎争《ていそう》の最中や戦国わずかに一統された際の人間は、百姓までも荒々しいと同時に気骨あり、こんな落書をしたので、それを直様《すぐさま》自ら返辞した大守もえらい。昨今の大臣や地方官も何卒《なにとぞ》せめて、この半分も稜《かど》ありて、自ら国民の非難を反駁し、理由さえ正しくば遠慮なしに打ち懲らされたい事じゃ。件《くだん》の賀太守を会稽の鶏に比べたは、その頃会稽に鳴かぬ鶏が有名であったらしい。予サンフランシスコへ着いて下宿の傍に鶏を多く畜《か》う家の鶏が、毎夜規律なく啼き通すに呆《あき》れたが、その後《のち》スペイン人オヴィエドの『西印度誌』六を繙《ひもと》くと似た事を記しあった。いわく、スペインおよび欧州の多くの部分では鶏が夜央《よなか》と日出に鳴き、ある鶏は一夜に三度、すなわち二時また三時と真夜中と曙光が見える四分の一時前とに鳴く。しかるに西インド辺では日没後一時、また二時して鳴き夜明け前一、二時また鳴くが夜中に鳴かぬ、ある鶏は夜の初更《しょこう》に鳴くきりでその他一度も鳴かぬ。故に一夜に二回また一回鳴き、夜中には鳴く事なし、さて、西インドの最も多くの鶏は日出の一時半か二時前に唱うと。それから北アフリカや西伊仏国の猫は二月初半に喚き歩いて妻を呼ぶが、西インドへ輸入するとたちまち風変りとなって鳴き噪《さわ》がず、その代りにいつ盛るという定めもなく年中唖でやり通しで、林中に食物多き故、野生となって大いに蕃殖《はんしょく》す。鶏が時を違え猫がやり通しにし散らすも気候の影響だろうと論じ居る。自分不案内の事ながら自分や知人どもが知り得た所に拠ると、どうも日本の鶏が雑種多くなるに伴《つ》れて鳴く時が一定せぬようになったと惟《おも》う。その理由を研究して多少明らめ得た所があれど今は述べず、読者諸君にも研究を勧め置く。南米のある地方へ鶏を移した時、どうも蕃殖せなんだが、この頃は蕃殖すると聞く。そのごとく外国種の鶏も追々土著しおわるに従って鳴く時も一定するはずかとも考える。
 時計のない世に鶏を殊に尊んだは、諸社にこれを放ち飼いにし、あるいは神鳥としてその肉を食わなんだで知れる。インドでも鶏肉を忌むが、多く堂の側に半野
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