《しょうしゅう》で相公てふ者と心やすくなり、その室に至って柱上に一小猴を鎖でつなげるを見るに狡猾《こうかつ》らしい。縦《はな》して席間に周旋せしめ、番語で申し付くると俄に一|楪《はち》を捧げ至る、また番語で詈れば一碗を易《か》えて来る、驚いて問うと答えて、某《それがし》に婢《ひ》あり、子を生んだが弥月《びげつ》にして死んだ。時にこの猴生まれて十五日、その母犬に殺され終日泣きやまず、因ってこの婢に乳養せしむると、長じて能く人の指使に随い兼ねて番語を解するというた。その後清州に至って呉同知|方《かた》に留まる、たちまち客一猴を携えて城に入るありと報ず。呉、杜に語りて、この人は江湖の巨盗だ、すべて人家に至って様子を窺い置き、夜に至って猴を入れて窃《ぬす》ます、而して彼は外にあって応援す。われ必ずこの猴を奪い人のために害を除かんと言うた。明日その客(すなわち相公)呉に謁す、呉飯を食わせ、その猴を求めしに諾せず、呉曰く、くれずばその首を切ろうと、客|詮方《せんかた》なく猴を与え、呉、白金十両を酬《むく》う。去るに臨んで番語で猴に言い付ける、たまたま訳史聞き得て来って呉に告げたは、客、猴に教えて汝飲まず食わずば必ず縛を解かるべし、その時速やかに逃れ去れ、我は十里外の小寺中に俟《ま》ち受けんというたと。呉、いまだ信ぜず。晩に至って果核水食の類を与え試むるに皆飲食せず、さてはと人を走らせ覗《うかが》うとこの客果していまだ行かず、帰り報ずると、呉、猴を打ち殺ししまったと出《い》づ。
『大清一統志』七九に明の王士嘉よく疑獄を決す。銭百|緡《さし》を以て樹下に臥して失うた者あり。士嘉曰く、この樹が祟《たた》ったのだ、これを治すべしとて駕してその樹下に往く、士民皆見物に出る、その間密偵せしむるに一人往かざる者あり、これを吟味するに果して盗なり。また代王の内蔵の物失せて戸締りは故《もと》のごとし、士嘉これきっと猴牽《さるひき》が猴を使うたのだと言いて、幣《ぬさ》を庭に列《つら》ね、群猴をして過《よぎ》らしめて伺うに、一つの猴が攫《つか》み去った、その猴の主を詰《なじ》るに恐れ入ったとある。
『犬子集』に「何事も祈れば叶へ猴の夜に」「あらはれぬるは怪し盗賊」。『筑紫琴《つくしごと》の唄《うた》』にもある通り、庚申《かのえさる》が叶《かな》え猴《さる》に通うより庚申の夜祈れば何事も叶うとしたらしい。しかるに一方では猴がややもすれば手が長いところから、今も紀州などの田舎では庚申の夜交われば猴に似て手癖悪き子を生むと信ずると同時に、庚申を信ずれば盗難を免るとし、失踪人《しっそうにん》や紛失物を戻し、盗賊を捕うるにこの神に祈り、縄を以てその像を縛るは、その本意神様を盗人と見立てたので、この神、本《もと》は猴だったと知れる。されば僻地《へきち》盗難繁かった処々は、庚申に祈りて盗品を求め、盗もまた気味悪くなってこれを返却した例多く、庚申講を組んで順次|青面金剛《せいめんこんごう》と三猿の絵像を祭りありく風盛んなり。さて田舎の旅宿が大抵その講の元を勤める。盗難多き旅宿は営業ならぬからで、庚申塚を道側に立てるも主として盗難少なく道路安全を冀《ねご》うての事と見ゆ。
『俗説贅弁』巻一や『温故随筆』に徳川幕府中頃までの神道者が庚申は猿田彦命と説いたのを非とし、就中《なかんずく》『贅弁』には神徳高き大神を如何ぞ禽獣とすべけんやと詈り居る。しかるに出口米吉君の近刊『日本生殖器崇拝略説』に『日本書紀通証』から孫引きされた『扶桑拾遺集』に、〈源順《みなもとのしたごう》、庚申|待夜《たいや》、伊勢斎宮に侍りて、和歌を奉る、小序に曰く、掛麻久毛畏幾大神《かけまくもかしこきおおかみ》、怜礼登毛《あわれとも》、愛美幸賜天牟《めぐみさきわいたまいてん》〉とある由。これは衢《ちまた》の神たる猿田彦大神を青面金剛すなわち三猿の親方と同体と心得、道家のいわゆる三尸が天に登って人の罪悪を告ぐるを防がんため、庚申の夜を守って長寿を保たん事をかの大神に祈るの意を述べたと見える。したがって猿田彦と庚申と同一神とは平安朝既に信ぜられいたのだ。さて、『贅弁』に神徳高き大神を如何ぞ禽獣とすべけんやと詈ったが、『玉鉾百首《たまぼこひゃくしゅ》』に「いやしけど、いかつちこたま狐虎、たつの類ひも神の片はし」と詠《よ》んだごとく、上世物をも人をも不思議なものを片端から神としたのは万国の通義で、既に以て秦大津父《はたのおおつち》は山で二狼の闘うを見、馬より下って口手を洗い浄め、汝これ貴き神にして、麁行を楽しむ、もし猟師に逢わば禽《とりこ》にされん、速やかに相闘うをやめよと祈って、毛に付いた血を拭《ぬぐ》いやり放ったという(『書紀』一九)。この人は殷の伝説同様夢の告げで欽明天皇に抜擢せられ、その財政を司って大いに饒富《じょうふ》を致した賢人だが、それほどの智者でも真実狼を大神と心得る事、今日秩父の狼を大口真神と崇むる太郎作輩《たろさくはい》に同じかった。されば猴の特に大きなのを大神とせるも怪しむに足らず。
[#「第7図 狗頭形の文字の神トット」のキャプション付きの図(fig2539_07.png)入る]
[#「第8図 古エジプト土人死後の裁判」のキャプション付きの図(fig2539_08.png)入る]
[#「第9図 狗頭猴悪人の魂を送還す」のキャプション付きの図(fig2539_09.png)入る]
似た例を挙げると昔いと久しく大開化に誇ったエジプト国でも数種の猴を尊んだ。その内もっとも崇められたはシノセファルス・ハマドリアスてふ狗頭猴で、古エジプト神誌中すこぶる顕著なる地位を占めた。昨今エジプトに産しないでアラビアとアビシニアに棲《す》み、時として大群を成す。身長四フィートばかり、その顔至って狗に似て長く、両肩に立て髪がない。この猴文字の神トットの使者たるのみならず、時としてトット自身もこの猴の形を現じた(第七図)。トットは通常人身|朱鷺《とき》頭で現じたのだ。エジプト人この猴を極めて裁判に精《くわ》しとした。第八図は野干(ジャッカル)頭の神アヌビスと鷹頭の死人の守護神が、死人の業《ごう》を秤《はか》る衡《はかり》の上に狗頭猴が坐し、法律の印したる鳥羽と死人の心臓が同じ重さなるを確かめてこれを親分のトットに報ずるところだ。さて衆神の書記たるトットがこれを諸神に告げるのだ。また第九図のごとく豕《いのこ》に像《かたど》った悪人の魂を舟に載せて、もう一度苦労すべく娑婆《しゃば》へ送還する画もある。またこの猴を月神の使者としその社に飼った。その屍は丁寧にミイラに仕上げて特設の猴墓所に葬った。けだしバッジの『埃及《エジプト》人の諸神』一巻二一頁に言えるごとく、狗頭猴のこの種は至って怜悧で、今も土人はこれを諸生物中最も智慧あり、その狡黠《こうかつ》を遥かに人間を駕するものとして敬重す。古エジプト人これを飼い教えて無花果《いちじく》を集めしめたが、今はカイロの町々で太鼓に合わせて踊らされ、少しく間違えば用捨なく笞《むち》うたるるは、かつて文字の神の権化《ごんげ》として崇拝されたに比較して猴も今昔の歎に堪えぬじゃろとウィルキンソンは言うた(『古埃及人の習俗)』巻三)。またいわく、アビシニアの南部では今もこの猴に種々有用な芸道を仕込む。たとえば、夜《よる》、燭《しょく》を秉《と》って遊宴中、腰掛けを聯《つら》ねた上に数猴一列となって各の手に炬火《かがりび》を捧げ、客の去るまで身動きもせず、けだし盗人の昼寝で当て込みの存するあり、事終るの後|褒美《ほうび》に残食を頂戴して舌を打つ覚悟なんだ。ただし時に懈怠《けたい》千万な猴が火を落したり、甚だしきは余念なく歓娯最中の客連の真中へ炬火を投げ込む事なきにあらず、その時は強く笞うちまた食を与えずして懲らす故閉口して勤務するようになるんだと。ちょっと啌《うそ》のようだがウィルキンソンほどの大権威家がよい加減な言を吐く気遣いなし。明治十年頃まで大流行だった西国合信氏の『博物新編』に、猴は人が焚火した跡へ集り来って身を煖《あたた》むれど、火が消えればそのまま去り、直《すぐ》側《そば》にある木を添える事を知らぬとあったを今に信ずる人も多いが、それは世間知らずの蒙昧な猴どもで、既にパーキンスから、今またウィルキンソンから引いた記述を見ると、少なくとも狗頭猴中もっとも智慧あって古エジプト人に文字の神アヌビスの使者と崇められたいわゆるアヌビスバブーンは、人を見真似に竈《かまど》に火を絶やさず炬火《かがりび》を扱う位の役に立つらしい。ダンテの友が猫に教えて夜食中|蝋燭《ろうそく》を捧げ侍坐せしむるに、生きた燭台となりて神妙に勤めた。因ってダンテに示して「教えて見よ、蝋燭立てぬ猫もなし、心からこそ身は賤《いや》しけれ」と誇るをダンテ心|悪《にく》く思い、一夕鼠を隠し持ち行きて食卓上に放つと、猫たちまち燭を投げ棄て、鼠を追い廻し、杯盤狼藉《はいばんろうぜき》と来たので、教育の方は持って生まれた根性を制し得ぬと知れと言うて帰ったと伝う。海狗《オットセイ》は四肢が鰭《ひれ》状となり陸を歩むに易《やす》からぬものだが、それすらロンドンの観場で鉄砲を放つのがあった。して見ると教えさえすれば猴も秉燭《へいしょく》はおろか中らずといえども遠からぬほどに発銃くらいはするなるべし。ただし『五雑俎』に明の名将威継光が数百の猴に鉄砲を打たせて倭寇《わこう》を殲《ほろぼ》したとか、三輪環君の『伝説の朝鮮』一七六頁が、楊鎬が猿の騎兵で日本勢を全敗せしめたなど見ゆるは全くの小説だ。それから前述のごとく、ベッチグリウ博士が、猴類は人に実用された事少しもなく、いまだかつて木を挽《ひ》き水を汲むなどその開進に必要な何らの役目を務めず、ただ時々飼われて娯楽の具に備わるのみ、それすら本性不実で悪戯を好み、しばしば人に咬み付く故十分愛翫するに勝《た》えずとは争われぬが、パーキンスが述べたごとく、飼い主の糊口《ここう》のために舞い踊りその留守中に煮焚きの世話をし、ウィルキンソンが言った通り人に事《つか》えて種々有用な役を勤むる猴もなきにあらず。したがって十七世紀に仏人バーボーが西アフリカのシエラ・レオナで目撃した大猴バリの幼児を土人が捕え、まず直立して歩むよう教え、追い追い穀を舂《つ》く事と、瓢に水を汲んで頭に載せ運び、また串《くし》を廻して肉を炙《あぶ》る事を教えたというも事実であろう(一七四五年板、アストレイの『新編航記紀行全集』二巻三一四頁)。この猴甚だ牡蠣《かき》を好み、引き潮に磯に趨《おもむ》き、牡蠣が炎天に爆《さら》されて殻を開いた口へ小石を打ち込み肉を取り食う。たまたま小石が滑《すべ》り外《そ》れて猴手を介《かい》に挟《はさ》まれ大躁《おおさわ》ぎのところを黒人に捕え食わる。欧人もこれを食って美味といったが、バーボーは食う気がせなんだという。前にも述べた通り猴は形体表情人を去る事間髪を容《い》れず、したがってこれを殺しこれを食うは人情に反《そむ》くの感あり。楚人猴を烹《に》るあり、その隣人を召すに以て狗羹《こうこう》と為《な》してこれを甘《うま》しとす。後その猴たりしと聞き皆地に拠ってこれを吐き、ことごとくその食を瀉《しゃ》す、こはまだ始めより味を知らざるものなり(『淮南鴻烈解』修務訓)。近年死んだヘッケルがエナ大学の蔵中になき猴種一疋を打ち取った時、英人ミラー大佐、たとい科学のためなりともその罪人を謀殺せるに当ると言うた(一九〇六年板コンウェイの『東方諸賢巡礼記』三一七頁)。コンウェイがビナレスの猴堂に詣《もう》で多くの猴を供養したところに猴どもややもすれば自重して人間を軽んずる気質あるよう記した。これ猴の豪《えら》い点また人からいえば欠点で、心底から人に帰服せぬもの故、ややもすれば不誠実の行い多く、犬馬ほど人間社会の開進に必要な役目を勤めなんだのだ。『大集経』に〈慧炬《えこ》菩薩猴の身を現ず〉、インドでも猴に炬を持たせたものか。
右述西アフリカのバーボー猴に似た記事が『古事記』にあって「かれ、その※[#「けものへん
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