十二支考
猴に関する伝説
南方熊楠
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)烏帽子《えぼし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一条摂政|兼良《かねら》公の
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「にんべん+其」、24−11]
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(例)むく/\と
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(一) 概言
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一条摂政|兼良《かねら》公の顔は猿によく似ていた。十三歳で元服する時虚空に怪しき声して「猿のかしらに烏帽子《えぼし》きせけり」と聞えると、公たちまち縁の方へ走り出で「元服は未《ひつじ》の時の傾きて」と附けたそうだ。予が本誌へ書き掛けた羊の話も例の生活問題など騒々しさに打ち紛れて当世流行の怠業中、未の歳も傾いて申《さる》の年が迫るにつき、猴《さる》の話を書けと博文館からも読者からも勧めらるるまま今度は怠業の起らぬよう手短く読切《よみきり》として差し上ぐる。
猴の称《とな》えを諸国語でざっと調べると、ヘブリウでコフ、エチオピア語でケフ、ペルシア語でケイビまたクッビ、ギリシア名ケポスまたケフォス、ラテン名ケブス、梵名カピ、誰も知る通り『旧約全書』が出来たパレスチナには猴を産せず。しかしソロモン王が外国から致した商品中に猴ありて、三年に一度タルシシュの船が金銀、象牙《ぞうげ》、猴、孔雀《くじゃく》を齎《もた》らすと見ゆ。その象牙以下の名がヘブリウ本来の語でなく象牙はヘブリウでシェン・ハッビム、このハッビム(象)は象の梵名イブハに基づき、孔雀のヘブリウ名トッケイイムは南インドで孔雀をトゲイと呼ぶに出で、猴のヘブリウ名コフは猴の梵名カピをヘブリウ化したので、孔雀は当時インドにのみ産したから推すと、ソロモンが招致した猴も象もアフリカのでなくインドのものと判る。
[#「第1図 アッシリアの口碑彫りたる象と猴」のキャプション付きの図(fig2539_01.png)入る]
それから古アッシリアのシャルマネセルの黒尖碑(第一図)を見ると、一人一大猴を牽《ひ》いてインド象の後に随い、次にまた一人同様の猴一疋を牽き、今一疋を肩に乗せて歩む体《てい》を彫り付け、その銘文にこの象と猴はアルメニアまたバクトリアからの進貢するところとある。いずれも寒国でとてもこんな物を産出しないから、これはインドより輸入した象や猴を更にアッシリアへ進献したのだ。ギリシアで最初猴を一国民と見做《みな》し、わが国でも下人《げにん》を某丸と呼ぶ例で猴を猴丸と呼んだ。その通りアッシリア人も猴を外国の蛮民と心得たらしく、件《くだん》の碑に彫った猴は手足人に同じく頬に髯《ひげ》あり、したがってアッシリア人は猴をウズムと名づけた。これはヘブリウ語のアダム(すなわち男)の根本らしい。今もインドで崇拝さるるハヌマン猴とて相好もっとも優美な奴がこの彫像に恰当《こうとう》する由(ハウトン著『古博物学概覧』一九頁已下)。猴のアラブ名キルド、またマイムンまたサダン、ヒンズ名はバンドル、セイロン名はカキ、マレイ名はモニエット、ジャワ名ブデス、英語で十六世紀までは猴類をすべてエープといったが、今は主として尾なく人に近い猴どもの名となり、その他の諸猴を一と括《くく》りにモンキーという。モンキーは仏語のモンヌ、伊語のモンナなどに小という意を表わすキーを添えたものだそうな。さてモンヌもモンナもアラブ名マイムンに出づという。ソクラテスの顔はサチルス(羊頭鬼)に酷似したと伝うるが、孔子もそれと互角な不男《ぶおとこ》だったらしく、『荀子《じゅんし》』に〈仲尼《ちゅうじ》の状面|※[#「にんべん+其」、24−11]《き》を蒙《かぶ》るがごとし〉、※[#「にんべん+其」、24−12]は悪魔払いに蒙る仮面というのが古来の解釈だが、旧知の一英人が、『本草綱目』に蒙頌《もうしょう》一名|蒙貴《もうき》は尾長猿の小さくて紫黒色のもの、交趾《こうし》で畜うて鼠を捕えしむるに猫に勝《まさ》るとあるを見て蒙※[#「にんべん+其」、24−14]《もうき》は蒙貴で英語のモンキーだ。孔子の面が猴のようだったのじゃと吹き澄ましいたが、十六世紀に初めて出たモンキーなる英語を西暦紀元前二五五年蘭陵の令と為《な》ったてふ荀子が知るはずなし、得てしてこんな法螺《ほら》が大流行の世と警告し置く。
猴の今一つの英名エープは、梵名カピから出たギリシア名ケフォス、ラテン名ケブス等のケをエと訛《なま》って生じたとも、また古英語で猴をアパ、これ蘭名アープ、古ドイツ名アフォ等と斉《ひと》しく猴の鳴き声より出たともいう。さて猴はよく真似《まね》をするから英語の動詞エープは真似をするの義で、梵語等も猴に基づいた真似する意の動詞がある。『本草啓蒙』に猴の和名を挙げてコノミドリ、ヨブコトリ、イソノタチハキ、イソノタモトマイ、コガノミコ、タカノミコ、タカ、マシラ、マシコ、マシ、スズミノコ、サルと十二まで列《つら》ねた。インドで『十誦律』巻一に、動物を二足四足多足無足と分類して諸鳥|猩々《しょうじょう》および人を二足類とし、巻十九に孔雀、鸚鵡《おうむ》、※[#「けものへん+生」、第4水準2−80−32]々《しょうじょう》、諸鳥と猴を鳥類に入れあり。日本でも二足で歩み得るという点から猴を鳥と見て、木の実を食うからコノミドリ、声高く呼ぶから呼子鳥《よぶこどり》というたらしい。
昔は公家衆《くげしゅう》など生活難から歌道の秘事という事を唱え、伝授に托して金を捲き上げた。呼子鳥は秘事中の大秘事で一通りは猴の事と伝えたが、あるいは時鳥《ほととぎす》とか鶏とか、甚だしきは神武天皇の御事だとか、紛々として帰著する所を知らなんだ。それを嘲《あざけ》った「猿ならば猿にしておけ呼子鳥」と市川|白猿《はくえん》の句がある。イソノタチハキとは何の事か知らぬが、『奥羽観跡聞老誌』九に、気仙郡五葉嶽の山王神は猴を使物とす、毎年六月十五日、猴集って登山しその社を拝む、内に三尺ばかりの古猴一刀を佩《お》びて登り、不浄参詣は必ずその刀を振って追う、人これを怪しむと出づ。馬の話の中に書いて置いたごとく、アラビアの名馬は交会して洗浄せぬ者を乗せずといい、モーリシャス島人は猴に果物を与えて受け付けぬを有毒と知るという(一八九一年板ルガーの『航行記』巻二)。惟《おも》うに老猴よく人の不浄を嗅ぎ分くる奴を撰び教えて帯刀させ、神前へ不浄のまま出る奴原《やつばら》を追い恥かしめた旧慣が本邦諸処にあったから、猴をイソノタチハキというたので、イソは神祠の前を指す古名だろう。イソノタモトマイ、コガノミコ、タカノミコ等は古え※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]女《さるめ》の君《きみ》が巫群《ふぐん》を宰《つかさど》った例もあり、巫女《ふじょ》が猴を馴らして神前に舞わせたから起った名で、タカは好んで高きに上る故の名と知る。
サルとは何の意か知らぬが巫女の長《おさ》を※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]女の君と呼んだなどより考うると、本邦固有の古名らしく、朝鮮とアイヌの辞書があいにく座右にないからそれは抜きとして、ワリス氏が南洋で集めた猴の諸名を見るも、わずかにアルカ(モレラ語)、ルア(サパルア語)、ルカ(テルチ語)位がやや邦名サルに近きを知るのみ。マレイ語にルサあるが鹿を意味す。『翻訳名義集』に※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴《びこう》の梵名摩斯※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]あるいは※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]迦※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]とある。予が蔵する二、三の梵語彙を通覧するに、後者は猴の梵名マルカタと分るが摩斯※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]らしい猴の梵名は一向見えぬ。しかるに和歌に猴を詠む時もっとも多く用いるマシラなる名は古来摩斯※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]の音に由ると伝うるはいぶかし。ところが妙な事は十七世紀の仏人タヴェルニエーの『印度紀行』に、シエキセラに塔ありてインド中最大なるものの一なり、これに附属する猴飼い場ありて、この地の猴をも近国より来る猴をも収容し商人輩に供餉《ぐしょう》す。この塔をマツラと称うと載せ、以前はジュムナ河が塔下を流れ礼拝前身を浄《きよ》むるに便り善《よ》かったから巡礼に来る者極めて多かったが、その後河渓が遠ざかったので往日ほど栄えぬと述べあり。英国学士会員ボール註に、これは四世紀に晋の法顕《ほっけん》が参詣した当時、仏教の中心だった摩頭羅《まずら》国の名を塔の名と心得伝えたので、十七世紀のオーランゼブ王この地に入って多く堂塔を壊《こぼ》ったが、猴は今も市中に充満し住民に供養さるとある。法顕の遺書たる『法顕伝』『仏国記』共にこの地で仏法大繁盛の趣を書せど猴の事を少しも記さず。それより二百余年|後《おく》れて渡天した唐の玄奘《げんじょう》の『西域記』にはマツラを秣莵羅とし、その都の周《めぐ》り二十里あり、仏教盛弘する由を述べ、この国に一の乾いた沼ありてその側《かたわら》に一の卒塔婆《そとば》立つ、昔|如来《にょらい》この辺を経行した時猴が蜜を奉ると仏これに水を和してあまねく大衆に施さしめ、猴大いに喜び躍って坑《あな》に堕《お》ちて死んだが、この福力に由って人間に生まれたと載す。いと古くより猴に縁あった地と見える。
『和州旧跡幽考』に猿沢池は天竺《てんじく》※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴池を模せしと、池の西北の方の松井の坊に弘法《こうぼう》作てふ猴の像あり。毘舎利《びしゃり》国※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴池の西の諸猴如来の鉢を持って樹に登り蜜を採り、池の南の群猿その蜜を仏に奉ると『西域記』を引き居るが、仏はなかなかの甘口で猴はそれを呑み込んで人間に転生したさに毎々《つねづね》蜜を舐《ねぶ》らせたと見える。また『賢愚因縁経』十二に、舎衛《しゃえ》国の婆羅門《ばらもん》師質が子の有無を問うと六師はなしと答え、仏はあるべしという、喜んで仏と衆僧を供養す。それから帰る途上仏ある沢辺に休むと猴が蜜を奉り、喜んで起《た》って舞い坑に堕ち死して師質の子と生まる。美貌無双で、家内の器物、蜜で満たさる。相師いわくこの児善徳無比と、因って摩頭羅瑟質《まずらしっしつ》と字《あざな》す。蜜勝の意だ。父母に乞うて出家す、この僧渇する時鉢を空中に擲《なげう》てば自然に蜜もて満ち、衆人共に飲み足ると。『大智度論』二六に摩頭波斯咤比丘《まずはしたびく》は梁棚《りょうほう》あるいは壁上、樹上に跳《おど》り上がるとあるも同人だろう。
これらの例から見ると、摩頭羅なる語の本義は何ともあれ、国としても人としても仏典に出るところ猴に縁あれば、猴の和名マシラはこれから出たのかと思わる。
本来サルなる邦名あるにマシラなる外来語をしばしば用いるに及んだは、仏教|弘通《ぐつう》の勢力に因ったがもちろんながら、サルは去ると聞えるに反してマシラは優勝《まさる》の義に通ずるから専らこれを使うたと見える。『弓馬秘伝聞書』に祝言《しゅうげん》の供に猿皮の空穂《うつぼ》を忌む。『閑窓自語』に、元文二年春、出処不明の大猿出でて、仙洞《せんとう》、二条、近衛諸公の邸を徘徊せしに、中御門《なかみかど》院崩じ諸公も薨《こう》じたとあり。今も職掌により猴の咄《はなし》を聞いてもその日休業する者多し。予の知れる料理屋の小女夙慧なるが、小学読本を浚《さら》えるとては必ず得手《えて》と蟹《かに》という風に猴の字を得手と読み居る。かつて熊野川を船で下った時しばしば猴を見たが船人はこれを野猿《やえん》また得手吉《えてきち》と称え決して本名を呼ばなんだ。しかるに『続紀』に見えた柿本朝臣|佐留《さる》、歌集の猿丸太夫、降《くだ》って上杉謙信の幼名猿松、
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