まつ》るとあって、支那で古く馬を牲にしたごとくインドでも委陀《ヴェーダ》教全盛の昔、王者の大礼に馬を牲にしたのだ。今羅摩が牲にせんとせる馬、脱《のが》れて私陀の二児の住所へ来たので、二児|甫《はじ》めて五歳ながら勇力絶倫故、その馬を捉《とら》え留《とど》めた。盗人を捕えて見れば我子なりと知らぬ身の羅摩、すなわちハヌマンを遣わし大軍を率いて征伐せしめたが、二児に手|甚《いた》く破られて逃れ還る。ここにおいて羅摩自ら総兵に将として、往き伐ち、また敗れて士卒|鏖殺《みなごろし》と来た。処へ二児の養育者ヴァルミキ仙来って、惻隠の情に堪えず、呪言を唱えてことごとく蘇生せしむ。
羅摩王、宮に還って馬牲をやり直さんとし、隣国諸王と国内高徳の諸梵士を招待す。梵士らこの大礼を無事に遂げんには必ず私陀を喚《よ》べと勧め、羅摩、様々と異議したが、ついにこれを召還しよく扱うたので大牲全く済む。羅摩|化《ばけ》の皮を現わし、また妻の不貞を疑い、再び林中に追いやらんとするを諸王|宥《なだ》め止む。羅摩なお不承知で、私陀永く楞伽に拘留された間一度も敵王に穢された事なくば、須《すべから》く火に誓うて潔白を証すべしと言い張る。私陀固くその身に※[#「王+占」、第4水準2−80−66]《あやまち》なきを知るから、進んで身を火中に投ぜしも焼けず。他にも種々その潔白を証したが、なお全く夫王の嫉妬を除く能わず、私陀は「熱い目を私陀のも私陀で無駄になり」で、今は絶望の余り自分が生まれ出た大地に向い、わが節操かつて汚れし事なくんば、汝、我が足下に開いてわれを呑めと願うに応じ、土たちまち裂けて私陀を呑みおわった。羅摩これを見て大いに悔い、二子にその国を頒《わか》ち、恒河の辺《あたり》に隠栖《いんせい》修道して死んだというのが一伝で、他に色々と異伝がある。
この譚に対して欧人間にも非難少なからず、われわれ日本人から攷《かんが》えても如何な儀も多いが、かかる事はむやみに自我に執して他を排すべきにあらず。たとえば欧州やインドの人は蟾蜍(ヒキガエル)を醜かつ大毒なる物として酷《ひど》く嫌う。しかるに吾輩を始め日本人中にこれを愛する者少なからず。アメリカインデアン人もまたしかり。モニエル・ウィリヤムスの『印度《ヒンズー》教篇』に、蛇は大抵の民族が甚《ひど》く忌むものながら、インド人はほとんど持って生まれたように心底からこれを敬愛称美するとあった。予かつて南ケンシントン美術館に傭《やと》われいし時、インドの美術品に貴婦が、遊逸談笑するに両|肱《ひじ》を挙げて、腋窩《えきか》を露《あら》わすところ多きを見て、インドの貴紳に向い、甚だ不体裁な事と語ると、その人わが見るところを以てすればこれほど端正な相好なしと至って真面目《まじめ》に答え、更に館に多く集めた日本の絵に、美女が少しく脛《はぎ》を露わせるを指ざし、非難の色を示した。されば太宰春台《だざいしゅんだい》が『通鑑綱目《つがんこうもく》』全篇を通じて朱子の気に叶《かの》うた人は一人もないといったごとく、第一儒者が道徳論の振り出しと定めた『春秋』や、『左伝』も、君父を弑《しい》したとか、兄妹密通したの、人の妻を奪うたのという事のみ多く、わが邦で賢母の模範のようにいう曾我の老母も、若い時京の人に相《あい》馴《な》れて京の小次郎を生んだとあるから私通でもしたらしく、袈裟御前《けさごぜん》が夫の身代りに死んだは潔《いさぎよ》けれど、死する事の一日後れてその身を盛遠《もりとお》に汚されたる事千載の遺恨との評がある。常磐《ときわ》が三子助命のために忍んで夫の仇に身を任せたは美談か知らぬが、寵|弛《ゆる》んで更に他の男に嫁し、子供多く設けたは愛憎が尽きる(『曾我物語』四の九、『源平盛衰記』一九、『昔語質屋庫《むかしがたりしちやのくら》』五の一一、『平治物語』牛若奥州|下向《げこう》の条)。しかしながらこれら諸女の譚は、道義に立脚した全くの戯作《げさく》でなく、それぞれかつて実在した事蹟に拠って敷衍《ふえん》したものなれば、要は時に臨んで人を感ぜしめた一言一行を称揚したまでで、各生涯を通じて完全|無瑕《むか》と保険付きでない。女権が極めて軽かった古代には、気が付きいても心に任せぬ事多く、何ともならぬ遭際のみ多かったのだ。いわんや風土習慣ことごとく異なったインドで、しかも西暦紀元前九百五十年より八十六万七千百二年の間にあったという遠い昔のラーマーヤナ事件を、今日他国人どもがかれこれ評するは野暮の至りだが、このような者を宗旨の経王として感涙を催すインド人も迂闊《うかつ》の至り。それを笑いながら、歴史専門家でなければ記憶せぬ善光寺大地震の頃生まれたカール・マルクスを新説として珍重がるも、阿呆の骨頂と岩猿《いわざる》を絵図《えず》と猴話に因《ちな》んで洒落
前へ
次へ
全40ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング