正后カウサリアに生ませた子で、初め林中に瞿曇仙に師事した時、上に述べた通りこの仙人その妻アハリアの不貞を怒り、詛うて石に化しあったのを羅摩足で触れて本形に復せしめた。それからミチラ国王ジャナカを訪《おとな》い、シワ神が持った弓あっていずれの国王もこれを彎《ひ》き得ずと聞き、容易《たやす》くその弓を彎き、その賞として王女私陀(シタ)を娶《めと》ったところを、父王より呼び還され政務を譲らる。一日弓を彎いた弦音《つるおと》以てのほか響いて側《かたわら》にあった姙婦を驚かせ流産せしめ、その夫の梵士怒って、爾今《じこん》、羅摩、庸人《ようじん》になれと詛う。それより羅摩生来の神智を喪う。その後ほどなく父王の第四妃その生むところの子を王に嗣《つ》ぎ立てしめんとて、切に羅摩に退位を勧め、羅摩承諾して、弟、羅史那(ラクシュマナ)と自分の妻私陀を伴い林中に隠る。一日羅摩の不在中、羅史那スルパナカの両耳を切り去る。これは楞伽(ランカ、今のセイロン)の鬼王羅摩泥(ラーヴァナ)とて、身体極めて長大に十の頭ある怪物の妹なり。羅摩泥、妹がために返報せんと、私陀を掠《かす》め去る。羅摩帰って妻を奪われしと知り、地に仆《たお》れて慟哭《どうこく》これを久しゅうしたが、かくてやむべきにあらざれば、何とか私陀を取り返さんと尋ね行く途上、猴王スグリヴァ、その児ヴァリと領地を争い戦うを見、そのためにヴァリを殺す。猴王大いに悦び力を尽して羅摩を助く。羅摩誰かを楞伽《りょうが》に使わし、敵情を探らんと思えど海を隔てたれば事|容易《たやす》からず。この時スグリヴァ猴王の軍を督せしハヌマン、身体極めて軽捷《けいしょう》で、たちまち海上を歩んでかの島に到り、千万苦労してようやく私陀が樹蔭に身の成り行きを歎くを見、また、その貞操を変ぜず、夫を慕い鬼王を詈《ののし》るを聴き、急ぎ返って羅摩に報じ、その請に応じて、山嶽、大巌を抜き、自分の身上にあるだけの無数の石を担《かか》げて幾回となく海浜に積み、ついに大陸と島地の間に架《か》け渡した。羅摩すなわち猴軍を先に立て、熊軍をこれに次がせて、新たに成った地峡を通り、楞伽城を攻め、勝敗多回なりしもついに敵を破って鬼王を誅《ちゅう》し、私陀を取り戻し、故郷へ帰った。
 竜樹菩薩の『大智度論』二三に問うて曰く、人あり無常の事至るをみ、転《うた》た更に堅く著す、国王夫人たる宝女地中より生じ、十頭の羅刹《らせつ》のために大海を将ち渡され、王大いに憂愁するを智臣|諫《いさ》めて、王智力具足すれば夫人の還るは久しからざる内にあり、何を以て憂いを懐《いだ》かんと言いしに、王答えて我が憂うる所以《ゆえん》は我が婦を取り還しがたきを慮《おもんぱか》らず、ただ壮時の過ぎやすきを恐ると言いしがごとしとあり。これは『羅摩延』(ラーマーヤナ)の長賦に、私陀実は人の腹から生まれず、父王子なきを憂い神に祈りて地中より掘り出すところ、その美色持操人界絶えて見ざるところとある故宝女といい、古インド人はセイロンの生蕃を人類と見ず、鬼類として羅刹と名づけた。十頭羅刹とはその酋長が十人一組で土人を統御し、それが一同に羅摩の艶妻を賞翫せんとて奪い去ったのであろう。王の智力もて夫人を取り戻すは成らぬ事にあらずというに答えて、ついには取り戻し得べきも、その間にわれも夫人も花の色の盛りを過ぎては面白い事も出来ぬでないかと羅摩の述懐もっとも千万に存ずる。それを散ればこそいとど桜はめでたけれ、浮世に何か久しかるべき、と諦め得ぬ羅摩の心を愚痴の極とし、無常の近づき至るほどいよいよ深く執著する者に比したのだ。
 さて羅摩王久しぶりで恋女房を難苦中より救い出し、伴うて帰国した後、一夜微服して城内を歩くと、ある洗濯師の家で夫妻詈り合う。亭主妻に向いわれは一度でも他男に穢《けが》された妻を家に置かぬ、薄のろい羅摩王と大違いだぞと言うた。その声|霹靂《へきれき》のごとく羅摩の胸に答え、急ぎ王宮に還って太《いた》く怒り悲しみ、直ちに弟ラクシュマナを召し私陀を林中で殺さしむ。ラクシュマナ、その嫂《あによめ》の懐胎して臨月なるを憐み、左思右考するに、その林に切れば血色の汁を出す樹あり、因ってその汁を箭《や》に塗り、私陀を林中に棄て、帰って血塗りの箭を兄王に示し、既に嫂を射殺したと告げた。私陀林中にさまよい声を放って泣く時、その近処に隠棲せるヴァルミキ仙人来って仔細を聞き、大いにその不幸に同情し、慰めてその庵へ安置し介抱すると、数日にして二子を生み、仙人これを自分の子のごとく愛育した、ほどへて羅摩ヤグナムの大牲《おおにえ》を行わんとす。これは『詩経』に※[#「馬+辛」、第3水準1−94−12]牡《せいぼう》既に備うとあり『史記』に秦襄公|※[#「馬+留」、第3水準1−94−16]駒《りゅうく》を以て白帝を祀《
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