心智を揮《ふる》い、かの者死して非々想天に生まれ、八万四千大劫の後ここに堕落して飛狸身を受け、諸畜生を害しまた婬し、その報いで餓死して今度は地獄に生まるるはずと知ったとある。『経律異相』三九に、『毘毘曇婆沙《びびどんばしゃ》』を引いていわく、昔一国王常に優陀摩子を敬し魚食を施す、この仙人食時ごとに空を飛び王宮に詣《いた》り、王迎えて自ら抱いて金牀上に坐せしめ食を供うるを、仙人食い終って偈《げ》を説き、呪願して飛び去った。しかるに王事故あって他行するに臨み、この仙人気短ければ、王同然に給事|篤《あつ》くする者なくては大いに怒り、呪詛して王位を失わしめまた殺すだろうと心配の余り、王女に汝我に代りよく供養すべきやと問うに、能くすと答う。因って万端抜かりなきよう言い含めて出で立った。後日食事に仙人飛び来り、王女自ら迎え抱いて金牀上へ坐せしめた。ここでちょっと中入りに申し上ぐる。キリスト教では眼で視《み》とれたばかりが既に姦婬同然といい、儒書にも宋の華父督が孔父の妻を途に見、目|逆《むか》えてこれを送り曰く、美にして艶《えん》なりと、竹添《たけぞえ》先生の箋《せん》に、〈およそ女子の美を称うるは顔色を言う、すなわち艶はその光なり、美の尤《ゆう》なるは、必ず光気ありて人を動かす、三字ついに後世美人を賦して俑《よう》と為す〉とあれば飛び切りの代物だ。それから孔父を攻め殺してその妻を奪い、主君|殤公《しょうこう》の怒るを懼《おそ》れついにこれを弑《しい》したというから、二教ともに眼ほど性慾を挑発するものなしとしたのだ。しかるに『十善法語』にも見える通り、仏教には細滑というて肌に触《さわ》るを最も強く感ずるとす。されば仙人、王女の軟らかな手で抱かれ、すなわち神足を失い、食事済んで飛び去らんとすれど能わず。その体《てい》南方先生外国で十五年仙人暮しで大勉強し、ロンドン大城の金粟如来《こんぞくにょらい》これ後身と威張り続け、大いに学者連に崇《あが》められたが、帰朝の際ロンドン大学総長から貰《もろ》うた金を船中で飲み尽し、シンガポールへ著きて支那料理を食いたいが文なしの身の上、金田和三郎氏(只今海軍少将か大佐)に打ち明かし少々借り倒して上陸し、十町も過ぎぬ間に天草生まれのへちゃ芸妓を見て曰く、美にして艶なりと、たちまち鼠色の涎《よだれ》を垂らし、久米《くめ》仙人を現じて車より堕《お》ち掛ったに異ならず。仕方がないから王宮の後園へ歩み入り、修行して王女の細滑を忘れ切り、神足を恢復せんとしたが、ここは御庭先の栞《しお》り門、戸を立てるにも立てられぬ。象馬《ぞうめ》車乗の喧《かしま》しさに心いよいよ乱れて修行を得ず。地体城中の人民この大仙もし一度でも地を歩まば我ら近く寄りてその足を礼すべきに、毎度飛び来り飛び去るのみで志を遂げぬと嘆《かこ》ちいた。それを知りいた仙人一計を案じ、王女を頼み、城中にあまねく告げしめたは、今日に限り大仙王宮より歩み去れば礼拝随意と、聞いて人民大悦し、街路を浄《きよ》め、幡《はた》を懸け、香を焼《た》き、花を飾って歓迎する。その間を鹿爪《しかつめ》らしく歩んで城から遠からぬ林中に入り、神足を修せんとしたが、鳥が鳴き騒いで仙人修行し得ず。すなわち林樹を捨て河辺に到り、その本法を以て神足を修せんとするに水中魚鼈廻転の声が耳に障《さわ》る。因って山に上り惟《おも》うらく、我今善法を退失せるは皆衆生に由《よ》る。この返報に世間あらゆる地行、飛行、水性の衆生を一切害し尽すべき動物に生まれ変らんと。この悪誓願を発して死んだところ、従前善法浄行の報いで非想非々想天に生まれ、八万劫の長い間、寂静園中に閑静を楽しんだが、業報尽き已《おわ》ってこの地の答波樹林に還り、著翅狸身と作《な》って身広五十|由旬《ゆじゅん》、両翅各広さ五十由旬、その身量百五十由旬あり、この大身を以て空行水陸衆生を殺し、免るるを得る者なく、のち死して阿毘《あび》地獄に生まれたということじゃ。
『仏本行集経』に、飛狸、『経律異相』に、著翅狸、いずれも優陀摩仙が転生とあれば、同物に相違なく、華南で狸というはタライと呼ぶ野猫で、中橋文相好物のタヌキ(これも北支那や黒竜州に産す)でない。故に支那訳経の飛狸、著翅狸はコルゴの英名フライイング・キャット、飛猫に合う。上にも述べた通り、至極怪しい獣でインドにも産すれば(バルフォールの『印度事彙』二)いよいよ仏典の飛狸はコルゴと考定さる。さて『僧伽羅刹《そうぎゃらせつ》所集経』一と二に有翅飛鬼、また羅刹有翅とあり、ハーバート・スペンセルが欧州で天魔に翅を画《えが》くは、蝙蝠を怪獣とせるに基づくといえるごとく、インドの羅刹鬼に翅ありとするは幾分蝙蝠に象《かたど》ったるべきも、右に引いた経文で見ると、多分はコルゴに根源すというべし。邦俗いわゆる天狗
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