び、眼に塗れば視力強く、邪鬼に犯されず、猴王を拝むに土曜最も宜しく、鉛丹と油はその一番好物たり。ハヌマン味方の創《きず》を治せんとて薬樹を北海辺に探るうち日暮れて見えぬを憂い、その樹の生えた山を抱えて飛び返るとて矢に中った時、この二物を塗って疵《きず》癒え、楞伽平定後、獲た物を以て子分の猴卒どもに与え尽した時、またこの二物のみ残ったからだ(『グジャラット民俗記』五四―一五六頁)。
[#「第6図 ハヌマン神像」のキャプション付きの図(fig2539_06.png)入る]
『コンカン民俗記』二章にいわく、大抵の村で主として猴王をその入口に祀《まつ》り、シワ大神の化身として諸階級の民これを崇む。その祭日に祠を常緑葉と花で飾り、石造の神像を丹と油で塗り替え、花鬘《けまん》をその頸《くび》にかけ、果を供え、樟脳《しょうのう》に点火して薫《くゆ》らせ廻り、香を焼《た》き飯餅を奉る、祠官神前に供えた椰子を砕き一、二片を信徒に与う。村の入口に祀るは、この神、諸難の村に入るを防ぐからで、昔は城砦を新設するごとにその像を立てた。この猴かつて聖人、仙人、梵士および牛を護るに力《つと》めて神位に昇ったと。わが邦でも熊野地方で古来牛を神物とし藤白王子以南は牛を放ち飼いにした。毎春猴舞わし来れば猴を神官に装い、牛舎の前で祈祷の真似せしめまた舞わせた。和深村辺では今に猴の手を牛小屋に埋めて牛疫を辟《さ》く。『記』にまたいわく、猴王作ったてふマントラ・シャストラ(神呪論)を講ずれば力強くて神のごとくなるという。ハヌマン像に戦士と侍者の二態あり。前者はこの神を本尊と斎《いつ》く祠に限り、後者は羅摩またはその本身|韋紐《ヴィシュニュ》を本尊として脇立《わきだち》とす(第六図は余が写実し置いた脇立像なり)。多力神なる故に力士の腕にその像を佩《お》びまた競技場に祀る。その十一体の風天の化身なる故に十一の数を好む。子欲しき者は丹でその像を壁に画き、檀香とルイ花を捧《ささ》げて日々祀る。また麦粉で作った皿にギー(澄酪)を盛り、燈明を上《たてまつ》ると。
 明治二十六年予、故サー・ウォラストン・フランクス(『大英百科全書』十一版十一巻に伝あり)を助けて大英博物館の仏像整理中、本邦祀るところの庚申青面金剛像《こうしんせいめんこんごうぞう》に必ず三猿を副《そ》える由話すと、氏はそれはヒンズー教のハヌマン崇拝の転入だろうと言われた。当時パリにあった土宜法竜師(現に高野山管長)へ問い合わせたところ、青面金剛はどうもハヌマンが仕えた羅摩の本体韋紐神より転化せるごとしとて、色々二者の形相を対照し、フランクス氏の推測|中《あた》れるよう答えられた(一九〇三年ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』九輯十一巻四三〇頁已下、拙文「三猿考」)。ここに詳述せぬが二氏の見は正しと惟《おも》う。『垂加文集』に〈庚申縁起《こうしんえんぎ》、帝釈猿を天王寺に来たらしむ云々、これ浮屠《ふと》通家説を窃みこれを造るのみ〉とあれど、遠く三国時代に訳された『六度集経』に、羅摩王物語を出して猴王(スグリヴァ、上出)衆を率い海に臨み、以て渡るなきを憂う。天帝釈化して猴となり身に疥癬を病めり、来り進んで猴衆に石を負わせ、海を杜《ふた》がしめ衆|済《わた》るを得とあり。『宝物集』にも似た事を記す。『委陀《ヴェーダ》』にハヌマンの父マルタ(風神)を帝釈の最有用な味方とし韋紐を帝釈の応神とす。後《のち》韋紐の名望高まるに及び全く帝釈と分離対抗し風神猴となって韋紐に従う(グベルナチス『動物譚原』二巻九九頁)。故に韋紐転化の青面金剛を帝釈の使者、猴を青面金剛の手下とするは極めて道理なり。『嬉遊笑覧』に『遠碧軒随筆』を引いて、庚申の三猿はもと天台大師三大部の中、止観《しかん》の空仮中の三諦を、不見《みざる》、不聴《きかざる》、不言《いわざる》に比したるを猿に表して伝教大師《でんぎょうだいし》三猿を創《はじ》めたという。
 しかれども一八八九年板モニエル・ウィリアムスの『仏教講義』に、オックスフォード大学の博物館に蔵する金剛尊は三猴を侍者とすと記し、文の前後より推すにどうもチベット辺のもので日本製でなさそうだった。その出所について問い合わせたが氏既に老病中で明答を得ず。かれこれするうち予も帰朝してそれなりで過した。『南畝莠言《なんぽゆうげん》』の文を読み損ねて勝軍地蔵を日本で捏造《ねつぞう》したように信ずる者あるに、予はチベットにも北京にもこの尊像あるを確かに知る。それと同例で庚申の三猿も伝教の創作じゃなかろう。道家の説に彭《ほう》姓の三|尸《し》あって常に人身中にあり、人のために罪を伺察し庚申の日ごとに天に上って上帝に告ぐる故、この夜|寝《いね》ずして三尸を守るとあって、その風わが邦にも移り、最初は当日極めて謹慎し斎戒してその
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