び掛かるごとく樹の最下枝に走り降り、たちまち止って血をあびたる場所を探り抓《つま》んで予に示した。その状今に至って眼前にあり、爾来また猴を射った事なし、予幕中に入りて一行にこの事を語りおわらぬ内、厩卒来りてかの猴死んだと告ぐ、因って尸《しかばね》を求めしむるに他の猴ども、その屍を持ち去って一疋も残らずと。
熊楠いわく、故ロメーンズ説に猴類の標本はどうしても十分集まらず、これはその負傷から死に至る間の惨状人をして顔を背《そむ》けしむる事甚だしきより、誰もこれを銃殺するを好まぬからだと。『三国志』に名高い呉に使して君命を辱《はずかし》めなんだ蜀漢の※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]芝《とうし》は、才文武を兼ねた偉物だったが、黒猿子を抱いて樹上にあるを弩《ど》を引いて射て母に中てしにその子ために箭《や》を抜き、木葉を巻きてその創《きず》を塞《ふさ》ぐ、芝嘆じてわれ物の性に違《たが》えり、それまさに死せんとすと、すなわち弩を水中に投じたがやがて俄《にわか》に死んだという。南唐の李後主青竜山に猟せし時、一牝猴網に触れ主を見て涙雨下し稽※[#「桑+頁」、第3水準1−94−2]《けいそう》してその腹を指ざし示す。後主人をして守らしむるにその夕二子を生んだ。還って大理寺に幸し囚繋を録するに、一婦死刑に中《あた》れるが妊娠中ゆえ獄中に留め置くと、いくばくならず二子を生んだ。後主猴の事に感じ死刑を減じ流罪に止《とど》めた(『類函』四三二)。
日本にも、櫛笥殿北山大原の領地で銃もて大牝猴を覘《うかが》うに、猴腹を示し合掌せしにかかわらず打ち殺し、その祟《たた》りで煩い死んだと伝う(『新著聞集』報仇篇)。今年元日の『大正日々』紙に、越前の敦賀郡愛癸村字刀根の気比《けひ》神社は浪花節の勇士岩見重太郎が狒々《ひひ》を平らげし処という。今も祭礼に抽籤《ちゅうせん》もて一人の娘を撰み櫃《ひつ》に入れ、若者|舁《かつ》ぎ行きて神前に供う。供わった娘は後日良縁を得とて競うてこれに中らんと望む。この村へ毎年二、三百疋の猴来り作物を荒すを村人包囲して捕え子猿を売る。孕んだ猴は腹を指さし命を乞うとあった。またしばしば熊野の猟師に聞いたは、猴に銃を向けると合掌して助命を乞う事多しと。これを法螺譚《ほらばなし》とけなし去らんとする人少なからぬが、一概にそうも言えぬ。数年前予が今この文を草し居る
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