めだ。かくて女王が勅定《ちょくじょう》した月数が過ぎると「別れの風かよ、さて恨めしや、いつまた遇うやら遇わぬやら」で銘々男の住所姓名を書いて渡し、涙ながらに船は出て行く帆掛けて走る、さて情けの種を宿した場合に生まれた子が女なら島へ留めて跡目《あとめ》相続、男だったら父の在所へ送致する(ここギリシア伝説混入)」というが甚だ疑わしい。しかしこの話をしたは正しき宗教家で、この二年内にかの島へ往きその女人に接した輩から親しく聞いたと言う。ただし日本に居る天主僧の書信に一向見えぬからどうもますます疑わしいとある。世に丸の嘘はないもので、加藤|咄堂《とつどう》君の『日本風俗志』中巻に、『伊豆日記』を引いていわく、八丈の島人女を恋うても物書かねば文贈らず、小さく作った草履を色々の染糸を添えたる紙にて包み贈る。女その心に従わんと思えば取り収め、従わざればそのまま戻す云々。女童部《めわらべ》の[#「女童部《めわらべ》の」は底本では「女童部《めらわべ》の」]物語にする。女護島《にょごがしま》へ男渡らば草履を数々出して男の穿きたるを印《しる》しに妻に定むという風俗の残れるにやと、ドウモ女人国へ行きたくなって何を論じ掛けたか忘れました。エーとそれアノ何じゃそれからまた、十五世紀にアジア諸国を巡《めぐ》った露人ニキチンの紀行に多分交趾辺と思わるマチエンてふ地を記し、そこにも似た婦人、昼は夫と臥せど夜は外国男を買うた話が見える。これらの例を考え合すと〈野婆群雌牡なく、男子に遇うごとに、必ず負い去りて合を求む〉ちゅう支那説は虚談ならずと分る。日本で備前の三村家親へ山婆《やまんば》が美女に化けて通い、ついに斬られた話あれど負い去って強求すると聞かぬ。
『和漢三才図会』にいわく、〈『和名抄』、※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]《えん》、※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴《みこう》以て一物と為す、それ訛《あやま》り伝えて、猿字を用いて総名と為す、※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]猿同字〉と。誠にさようだがこの誤り『和名抄』に始まらず。『日本紀』既に猿田彦、猿女君《さるめのきみ》など猴と書くべきを猿また※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]と書いた。『嬉遊笑覧』に言える通り鴨はアヒルだが、カモを鳬と書かず鴨と書き、近くはタヌキから出たタナテ、
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