神女が馬と猴の母だという。こうなるとどうも猴と馬が近親らしい。『虎※[#「金+今」、第3水準1−93−5]経《こけんけい》』に猴を厩に畜《か》えば馬のために悪を避け、疥癬を去るとある。悪を避けは西洋でいう邪視を避くる事でこれが一番確説らしい。アラビア人など駿馬が悪鬼や人の羨み見る眼毒に中《あて》らるるを恐るる事甚だしく、種々の物を佩《お》びしめてこれを避く。和漢とも本《もと》邪視を避くるため猴を厩に置き、馬を睨《にら》むものの眼毒を種々走り廻る猿の方へ転じて力抜けせしめる企《たくら》みだったのだ。また疥癬を去るとあるより推すに、馬の毛に付いた虫や卵を猴が取って馬を安んずるのかも知れぬ。烟管《キセル》を掃除したり小児の頭髪を探ったりよくする。『新増|犬筑波《いぬつくば》集』に「秘蔵の花の枝をこそ折れ」「引き寄せてつぶり春風我息子」「虱《しらみ》見るまねするは壬生猿《みぶざる》」。壬生猿何の義か知らぬが、猴同士虱を捜り合うは毎度見及ぶ。しかるに知人アッケルマンの『ポピュラー・ファラシース』にいわく、ロンドン動物園書記ミッチェル博士がかの園の案内記に書いたは、世人一汎に想うと反対に、猴が蚤《のみ》に咋《く》わるる事極めて稀《まれ》だ。そは猴ども互いにしばしば毛を探り合うからだが、それにしても猴が毛を探って何か取り食うは多くは蚤でなくて、時々皮膚の細孔から出る鹹《から》き排出物の細塊であると。ただし虱の事を書いていないは物足らぬ。この話で思い出したは享保二十年板|其碩《きせき》の『渡世身持談義』五、有徳上人の語に「しからばあまねく情知りの太夫と名を顕《あら》わさんがために身上《みあが》りしての間夫狂《まぶぐる》いとや、さもあらば親方も遣《や》り手も商い事の方便と合点して、強《あなが》ちに間夫をせき客の吟味はせまじき事なるに、様々の折檻《せっかん》を加うるはこれいかに、その上三ヶ津を始め諸国の色里に深間《ふかま》の男と廓《くるわ》を去り、また浮名立ててもその間夫の事思い切らぬ故に、年季の中にまた遠国の色里《いろざと》へ売りてやられ、あるいは廓より茶屋|風呂屋《ふろや》の猿と変じて垢《あか》を掻《か》いて名を流す女郎あり、これ皆町の息子親の呼んで当てがう女房を嫌い、傾城《けいせい》に泥《なず》みて勘当受け、跡職《あとしき》を得取らずして紙子《かみこ》一重の境界となる類《たぐ》い
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